2008年1月アーカイブ

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承前


やはりプライスにすべてを語らせなければいけない。


もちろんもともとの定価といういちおうの目安はあるし、古本としての相場もマーケットの原理の中で
なんとなく決まっていくものかもしれないけれど、実はそういったもろもろの要因に関係なく、売る人が
自由に決めていいんだよ、というのが古物という定価が存在しない商品のルールで、セレクションが
本屋のコアであることは間違いないとしても、スペックやコンディション以外のことで、その本にこめた
売り手の様々な想いを、シンプルに発信できる唯一のメッセージが、この「プライス」だ。

買ってほしいという願い、売りたくないというエゴ、安すぎるかもしれないという欲、高すぎるかもしれな
いという迷い、そういった気持ちが振り子のように揺れて、止まったところ。


ブックオフが成功したのは、そしていまだに本好きから古書店としてなかなか認知されないのは、そう
いった情緒的なプライシングを排して、定価の半額と105円だけ(店舗によってはもう少しバリエーション
があるみたいだけれど)という即物的な、ある意味とてもわかりやすいメッセージを消費者に発信した
からだろうけれど、やはりそれでは面白くない。

ちょっとアナクロなイメージかもしれないけれど、プライスというものを介して、売り手と買い手の価値観
が火花をちらすというのが、この不確かな商品のあるべき姿だし、それは古書店の現場でも、amazon
やヤフオクのようなインターネットの画面でも同じことなんじゃないかと思う。


植草甚一さんが、古本についていた値段をケシゴムで消して、勝手に書き直し(古本の値段は鉛筆
で書くのが正統派古本屋の流儀なのです)、こんな本はぼくしか買わないんだからこれが適正価格
なんですと嘯いたというのは有名なエピソードで(本買の場面ではときどき同じことをやってしまいそう
になることがあるんですが)、このきわどい虚々実々こそが、古本の醍醐味じゃないだろうか。


680円と700円とでは違うんだ、明らかに。


だからこそそれを決めるときには、少し胸がふるえる、iPhoneのアイコンのように。


*


ニール・ヤングの「Heart of Gold (ジョナサン・デミ監督)」という映画を見ていたら、エミルー・ハリス
がインタビューを受けていて、ナッシュヴィルのライマン・オーディトリアムというステンドグラスの美し
いホールの側に建ったビルディングに対して、あんな醜悪でしかも美しいものを台無しにしようとする
ものを取り締まる "artistic police"があったらいいのにと語っていた。

邪魔な電信柱やプロバンス風建売住宅やニヤケ笑いの橋本徹大阪府知事やナンミョー悪代官冬柴
国土交通大臣などを、artistic police に即刻逮捕していただきたい。




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books+コトバノイエをオープンして50余日、少しずつ伸びていく本売と裏腹に、本買がこのところ不作で。

不作のときも黙々と耕しておかなければ、豊穣の女神が微笑んでくれないということは、わかっている。
こういうときに河岸をかえたり、いつもと違う筋を狙ったりしてペースを変えることはよくあるけれど、それで
いい結果を呼び込むなんてことは実はあまりなくて、結局は、いつものように同じペースで、同じところを
耕し続けるっていうことが大事なところ、色川武大さんがいうように、フォームを守ることがプロ的悦楽への
原則なんだと思う。

ただ、売ることのフォームが、まだよくつかめない。

本を選びそれを買うことはいままでもずっとやってきたことだから、手のうちに入っている感じはもっている。
でもその本を「売る」、しかもまったく知らない人のところへ届けるなんていうことは、未体験ゾーンの出来
事で、実際にことが始まって見ると、本との距離のとりかたがよくわからず、なんとなく ambivalent な気分
のままに、これもいい本なんだけど、などと呟きながら、梱包し、メールを返し、本を送っている。

もともと売るために買った本じゃなく、自分が気に入って買った本ばかりなんだから手放したくないのはあた
りまえといえばあたりまえ、でもそういう執着心は、古書店の看板を揚げた時点で割り切ったつもりでいた。
どうしても手放したくない本はブックリストに載せなければいいんだから、なんて思いながら。

でもやっぱりそれでは面白くない。
こんないい本があるんだよって伝えることがこのブックストアの真意だし、ほんとうは「売ってもいい」本に
売る価値なんてないんだから。

一冊一冊の本をそういった想いをこめながらセレクトすること、そしてそれを惜しみなくリストアップすること、
そこからしかホントの愉しさは生まれてくるわけはないし、それを続けることでしか、ブックストアとしての
正しいフォームは固まらないと、あらためて覚悟する。


本を「売る」のではなく、気持ちをこめて本を選び、それをひたすら並べるだけなんだ。

*

そんな気分のなかで、最近売れた本への懺悔録、本買記ならぬ本売記を少し。


アッキレ・カスティリオーニ 自由探求としてのデザイン   多木陽介  AXIS  20071128 初版  
   
そんなかんたんに売れるとは思わなくて、しっかりと読みもせずリストに載せてしまったら売れてしまった一冊。
去年11月に発行されたばかりの新古本だけれど、イタリアンデザインの巨匠カスティリオーニの制作への姿勢
を、イタリア在住の演出家が紐解いた面白そうな本だった。帯に書かれていた「デザインを考え抜いて、それ
からこの本を読んだら、みんなここに書かれていた。」という深澤直人のコピーも気になっていたのに。

ちょっと後悔。


イームズ入門   イームズ・デミトリオス   日本文教出版  20041020 初版

イームズ夫妻の孫で、現イームズ・オフィスの主宰であるデミトリアスが綴った祖父母へのオマージュ。
カスティリオーニを買っていただいた神奈川県の人に続けざまにオーダーをいただいた。
どちらも amazon を通しての注文だが、事前のやり取りがなく、いきなり売れたという知らせが amazon から
入り、あわてて発送するというカタチに微妙な違和感を感じている。

どこかにこの本を気に入ってくれた人がいたということはとても嬉しいんだけれど 。


ロック・アーティスト来日ツアーのパンフレット

もっとも驚いたのがこのパンフレットだった。
倉庫に眠っていた1970年代初頭の来日ロック・アーティスト(レッドツェッペリン/サンタナ/CCRなど)の
ツアーパンフレットをモノは試しとヤフオクに出品したら売れた、それもびっくりするような価格で。
しかもたぶん売れないだろうと低い価格を設定した JETHRO TULL や  MAHAVISHNU ORCHESTRA
なんていうマイナー(と思っていた)ものに一番先に値がついて、インターネットのロングテールというものを
あらためて思い知らされた。
そしてもっとびっくりしたのは、このオークションの落札者から、チケットの半券ないですかと訊かれたこと。

取り扱うものは本だけでなく、printed matter (印刷物)全般であるという古書店の心得を実感しました。


俵屋の不思議   村松友視  世界文化社  19990715 8刷

コトバノイエの取材に来られた某誌の編集の方がご購入、帰りの新幹線の中でこの本のおかげで退屈
せずに過ごせました、とのメッセージを後日いただいた。
体裁も内容もなかなかいい本で、少し惜しくもあったけれど、こうしたコミュニーケーションの中で本が流通
するんなら本望です。

個人的には、俵屋のご亭主(故人)で写真家のアーネスト・サトウ氏に興味津々。


PORTRAIRTS    RICHARD AVEDON  TheNoondayPress  1976

いつどこで買ったのかまったく思い出せない一冊、おそらく学生の頃に新刊で手に入れたんじゃないかと思う。
ポートレート写真の金字塔といわれる作品集で、けっこう立派なプライスを設定したんだけれど、amazon に
出品したら、あっさりとご成約。
やはり「絶版-巨匠」というコンビネーションにはそれなりのパワーがあるようです。 
それともたまたま?

価格が高いものほど惜しい気持ちが強くなるのは、まだまだ修行が足りない証拠でしょう。


住宅読本     中村好文  新潮社  20040620 1刷

予想どおり女性の方に買っていただいて、sweet honey 好文さんの面目躍如といったところ。
その優しい語り口とはうらはらに、けっこう硬質な住宅論を提示していて、数ある住宅本のなかでも良質の一冊
だと思うけれど、すでに役目を終えたと感じていた本なので、残心はない。

give and take 、こういう even な感じの売買が理想的なのですが。


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金杯に負けて新しい年が始まる。

天神橋筋に本買の足を伸ばせば「えべっさん」にめぐりあい、これもまた正月気分。

 

今年は生誕100年ということなんで、J.J.氏の本を久しぶりに買ってみた。


雨降りだからミステリーでも勉強しよう   植草甚一   晶文社   19731020 7刷


なんとも心地よいタイトル。

「ワンダー植草・甚一ランド(初版1971/12/25)」以降の植草甚一というのは、ユニット名―植草本人、
津野海太郎、平野甲賀を中心にときどき片岡義男などが入ってくる―と捉えた方がいいのではないかと
いう説があるが、なるほどそういうことだってあったのかもしれないという気がしてくるくらいこの人に
まつわるムーブメントには、今から考えると不思議な白熱があった。

大きくいえば、サブカルチャーの「発見」ということじゃなかったかと思う。

60年代に、既成の価値観(エスタブリッシュメント)に対して NO ! と宣言することから始まる、カウンター
カルチャーを標榜した団塊世代(当時20代だった)が、挫折のなかで引き寄せられたのが、傍流の存在感
を積極的に肯定する「サブ」というコンセプトで、世間体といったようなものに代表される既成価値の象徴
である親とまったくソリが合わない彼らが「発見」したのが、 自分たちの親のひとまわり上の世代のちょっと
変ったじいさんたちだった。

主流から離れてもなお輝く独自の価値観(ライフスタイル)を持ち続けた大人たち。

もちろん植草甚一はその代表格だけれど、一千一秒物語・A感覚の稲垣足穂、放浪の詩人金子光晴と
いった明治生まれの不良じいさんたちや、田中小実昌、殿山泰司、久保田二郎、山田風太郎、色川武大、
小林信彦といった戦中派のへそまがりたちも、そのサブカルチャー(ポップ感覚といってもいいかもしれない)
の流れの中で、異彩を放っていた。

その白熱は、サブカルチャーというものが、すでにひとつの価値観として認知されてしまっている(というか
主流という概念が霧散してしまったような)今の時代では考えられないことだけれど、「そんなの関係ねえ」
というライフスタイルの萌芽がここにあることは間違いない。

そしてその流れが、やがて「POPEYE(1976創刊)」につながり、バブルへと突入していくことになる。

植草甚一は、若い人や中年男性には今でも人気はあるけれど、中高年の女性に無関心な人が多いって
いうことが、何かを暗示しているんじゃないかと思う。

「ちょっと変わったサブカルじいさん」なんて、もう見かけなくなってから久しい。


*


■ 書を捨てよ、町へ出よう     寺山修司    芳賀書店   19680110 10版

均一台で、60年代の寺山修司のオリジナル版にめぐり合うなんてそうそうあることじゃない。
まして、横尾忠則が全面的にアート・ディレクションを施した稀少書として知る人ぞ知る一冊ならなおさら。

「手は生産的だが、足は消費的である。」
「ブリジット・バルドーの足は、それ自体でひとつの文化である。」

まえがきをちらっと眺めただけでも、寺山修司の得意技、アフォリズムが炸裂している。

残念ながらカバーはないけれど、充分満足しています。


■ 美味礼賛     ブリア・サヴァラン/関根秀雄訳    創元社    19531005 初版

「君はどんなものを食べているか言ってみたまえ、君がどんな人であるかを言いあてて見せよう」

食べ物の本を時たま買いたくなることがあるけれど、古典として名高いこの本の昭和28年初版の良本
が見つかるとは思ってもみなかった。

創元社の本だし、図柄からしてひょっとして青山二郎の装丁なんじゃないかと思う。
そうならばなおウレシイ。


■ 悠々として急げ     牧洋子編    筑摩書房    19911025 初版

未亡人牧洋子が編んだ開高健の追悼本。

司馬遼太郎の弔辞にはじまって、その3年後に娘道子を自死で亡くすことになる未亡人(故人)の追悼記
で終わる文集だけれど、故人を語る文章が饒舌であればあるほど、開高健のあの緻密に練り上げられた
文体が、one and only であることを、強く感じさせてしまう。

そういえばこの人もアフォリズムの名手でした。


最近買ったこの3冊のことを考えていると、ひょっとしたらアフォリズム好きなんじゃないかと思えてきた。


*


今年の目標は、「量より質」。

そして「 NEW YORK でセドラーしようツアー」を敢行したいということです。


今年もどうぞよろしく。

 

 

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