2008年5月アーカイブ

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遠くにいるはずの写真家が一陣の風のように現れ、撮影の合間だからと颯爽と立ち去った。
そして残されたのがこの素晴しい写真集だ。


■ 廃墟チェルノブイリ        中筋純       二見書房       20080426 初版


フォトグラファーの眼の凄さ。

廃墟と化した22年後のチェルノブイリ(正確にはプリピチャチの街)を、ジャーナリスティックな
功名心や、センチメンタルな感傷に流されることなく、プロフェッショナルな写真家の透きとおった
カメラ・アイで、静かに、そして美しく捉えている。

「写真というのは見えないものを写す作業だ」と中筋さんはこの本の中で言っているけれど、
被写体とカメラの間の濃密な空気感が、そこには確かに映しとられていて、見えるはずのない
放射能を感じ、身震いしてしまうほどだ。

人はひとりも写っていないのに、彼が撮った写真のひとつひとつの光と影に、凍りついた石棺
のような原子炉にさえ、さまざまな人間の生や死が視えてくる。

写真家は、きっとこの荒涼とした景色の中に、たとえようもなく大きくて、そしてじつはとても優しい
自然の力(それを神と呼んでいる人たちもいるが)のリアリティを体感していたに違いない。


それにしても、朽ち果てた原子力発電所の街は美しい。
不謹慎かもしれないが、たとえようもないくらいそれは美しいのだ。

そしてそれはまぎれもなく、彼がこの廃墟に美の存在を感じているということに他ならない。

文字どおり「真」を写すのが写真というものの radical な役割だとすれば、この「美しさ」こそが、
「廃墟チェルノブイリ」という写真集の本質じゃないかとさえ思う。

「廃墟は人間にリアルを突きつける刃のような存在だ」と中筋さんは preface で語っている。
そしてこのチェルノブイリこそは、地球上のどの場所より廃墟と呼ぶにふさわしい。

美の中にリアル(真)を視ることは人間の本性のようなものだし、発見し命名することは美学の
はじまりだから、人間がつくった構造物の荒廃が「廃墟」と名付けられたときから、それはすでに
「美」を内包していたといってもいいんじゃないだろうか。

アクロポリスもアンコールワットも桂離宮も、考えてみればみな廃墟なのだ。

あるいはぼくたちが生きているこの街も、廃墟になりつつある場所といってもいいのかもしれない。

流れる時間の濃淡は、生きているものに測る術はないけれど。


*


置き去りにされたこの街の写真に触発されて、" patina " というコトバが浮かんだ。

ソニー/エリクソンのデザインチームの制作する次世代携帯のキーワードで、携帯電話の素材を、
チタンやステンレスといったハードで変化しにくいものではなく、むしろ使用するうちに美的に変化する
ようなものにしたらどうだろうかという試案だった(「デザイン・ウォーズ」 NHK special  2007/07/23)。

廃墟とはまったく逆の経年変化だ。

もともとの辞書的な意味は「緑青」「使いこまれた器具の表面のつや、古色」「表面につけられた風格、
品位」、つまり古さ(旧さ)がもつ味わい、経年変化の愉しみ。

古典的な日本の美の概念でいうと、「侘び寂び」ということになるのかも知れないけれど、patina という
コトバにはもう少しクリエイティブなニュアンスを感じる。

フランク・ロイド・ライトがこんなことを言っている。
「雨が降るたびに繰返し洗われ、太陽を受けて温もり、時を経ても、それによって煤けてみすぼらしく
古ぼけることなく、かえって豊かさを増していくような建築が、ないものだろうか。」
建築の素材としての煉瓦やテラコッタの水平の目地について述べた文章の中でのことである。

これが patina なんだ。
そしてこの概念が、この時代のデザインや way of life に示唆するものはとても大きいと思う。

建築だけじゃなく、すべてのプロダクツが必ず直面する「陳腐化」への、ひとつのオルタナティブ。
使えば使うほど品が良くなるもの、キレイに使い込んだものを美しいと感じる感性。

気に入ったものに手を入れながらできるだけ長く使い続けることが、サスティナビリティの要諦だと
すれば、なんとなく日本人の心の奥底にごく自然にある美意識じゃないかっていう気がしないでも
ないこの patina というコンセプトを、片隅であっても意識することが、とても大切になってくるんじゃ
ないだろうか。

この前のエントリーの藤本壮介さんのコンセプトで、少し物足りなさを覚えたのは、この継続性という
ことに対する表明がなかったことがその理由じゃなかったかと、今になって思う。

「原初的な未来の建築」も、経年変化に耐えなければホンモノじゃないからね。


そんなことを想いながら、ふたたびこの写真集をぼんやりと眺めていると、裏表紙のぼやけた放射能
マークが、一瞬、ムンクの「叫び」に見えた。


怖っ。






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これは果たして新たなる才能なのか、あるいは確信犯的なトリックスターなのか。

■ 原初的な未来の建築   藤本壮介   INAX出版  20080415 初版

新しい「言葉の建築家」の登場を感じる。

その新しさは、旧世代の論客(磯崎・黒川・隈)が文脈や論理として語ったことを、
コピーライティングのような感覚で軽々と表現していることだろう。

そしてその感覚は、この「関係性」の時代にふさわしいものかもしれない。

(1971生まれの彼にとっての取捨選択のモノサシは、「価値(旧世代はこれに拘泥した、
肯定するにせよ否定するにせよ)」ではなく、「関係(AよりBのほうがなんとなく、という
ような)」ではないかと想像する。当然ながら、「関係」には、正しい答えなんていうものは
存在しない。)

たとえばそれはこんな風だ。

□ 巣ではなく洞窟のような    人工と自然のあいだ コルビュジェのようにではなく
□ 5線のない楽譜   時間は、つまり空間は、関係性である ミースのようにではなく。
□ 離れていて同時につながっている   建築とは距離感を作り出すことであろう 0と1の間のグラデーション
□ 街であり、同時に家であるような   複雑な関係性が織り成すプリミティブな全体 パサージュ論
□ 大きな樹のなかに住むような   完結した部屋ではなく、関係しあう居場所 居場所の立体的なネットワーク
□ あいまいな領域のなかに住む   さまざまな密度の濃淡による「ぼんやりとした領域」
□ ぐるぐる   すべての「外」を内化し、すべての内を外化する渦巻き ぐるぐるは、身体化された無限である。
□ 庭   建築とは屋根のかかった庭である。庭とは屋根のない建築である。
□ 家と街と森が分かれる前へ   この家には屋根がない、あるいは厚い空気の屋根がある。
□  ものと空間が分かれる前へ   ものと空間は別々のものではない。音と沈黙は別々のものではない。 
(後半はちょっと苦しいね)

ここに提起されたきわめて感覚的な表現が、じつは建築のコンセプトではなく、
彼がこうありたいと描く建築家の平面図であることは、この本を読めばすぐわかることだけれど、
彼が巧みなのは、それがそのまま自分自身のための広告のコトバになっているというところだ。
そして、広告のコトバで現されているものはやはりマーケティング・タームということになる。

建築家に限らず、どんな職業であってもマーケティングやプロモーションが必要であることは
間違いないし、それぞれがそれぞれのやり方で行っているわけだけれど、建築家としての
マーケティングのターゲットを、金主である施主ではなく、建築界とマスメディアに絞っている
ところが、この人の頭の良さじゃないだろうか。

彼が何回もSDレヴューに応募し、入選・受賞しているのはけっして偶然ではなく、おそらくこの
「言葉と建築」というマーケティング手法を強く意識しているからに違いないし、「建築家」の建築は、
この島国では施主が決めるのではなく、建築界やメディアに流れる空気で決まるということを、
よくわかっているからだろう。

そしてその手法に(うまく)反応したのが、この本に寄稿している伊東豊雄さん、五十嵐太郎さん、
そして対談をしている藤森照信さんという建築界の面々だったようだ。

good job, sou.


初めて建てた建物が北海道の実家の精神病院(聖台病院)の別棟(施主は親)、JIA新人賞を
受賞したのが同じ北海道にある精神障害者生活訓練施設、そしてやはり北海道の情緒障害児
短期治療施設で JIA日本建築大賞、身内を泣かせながら受賞作を造っていくのは、
アート・コンシャスな建築家の王道でしょう。

彼自身は自分の造るものの総体を「space of intention(意図のない場所)」と表現している。
つまり、「space of no intention」という 強力な intention だ。

intention、すべてが意図するところ、確信犯的に、芸術のように。

「建築というのはすべて『つくられたもの』 だけれども、それを少し超えて『できてしまったもの』
のようにするこ とはできないかということです。すごく厳密な人工的なプロセスと、 『偶然性』や
『曖昧さ』とが同時に立ち現れるような形式がありえるのではないかと思うのです。」

ピカソやウォーホルやコルビュジェがそうであったように、現役で「売れる」ためにはアーティスト
自身のマーケティング能力は必須のものだ。 そういう意味では、この若者もいまのところ資格十分、
これからの彼の activity と その attitude は注目に値する。

その論がフェイクであれリアルであれ実はそんなことはどっちでもいいんだ。
建築には「建物」という変えようのない実質があるんだから。

「 Tokyo Apartment 」はイカしてます。
とにかく流されることなく自分がいいと思う建物だけを作り続けてください、「独裁者」的に。

 あなたのいちばんいいところは、自分が一番だと思ってないところじゃないでしょうか。

老婆心ながら。

 

*


晴れた日は晴れた日の、雨の日は雨の日の本が集まってくる。
なかなか思うようにはならないけれど、一冊でも心の奥底に触れるような本があればいいな
と思いながら、あちこちの本棚を流して歩く、ときにはインターネットのジャングルも。

■ 映画 X 東京 とっておき雑学ノート  小林信彦   文藝春秋  20080425 初版

遠くに住んでいる伯父さんからの手紙のような本が amazon から届き、そしていつものように
一気に読み終えた。

なんとも冴えないタイトルだけれど、週刊文春に連載されている時評コラム「人生は五十一から
 − 本音を申せば」の単行本もこれで10冊目になる。

晩年をむかえて、いわゆる雑文(実はコラムこそがこの人の本領じゃないかと思うんですが)を
書くことがめっきり減った小林さんだが(残された時間をできるだけ小説に集中したいと自らが
おっしゃっていますから)、この連載だけは律儀に続けていてくれている。

見巧者ぶりはおとろえず、
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を「CG仕掛けの人情喜劇」と断言し、マーティン・スコセッシを
大作ではなく小品に資質のある「生まれついての映画オタク」、そして昨年のアカデミー受賞を、
ポール・ニューマンのハスラー2のときと同じ、アカデミー会員の贖罪票だと喝破する。
タモリ倶楽部の空耳アワーが少しお荷物になってきたと見破るところなんかはこの人の真骨頂だ。

こうやって毎年春先に届くクロニクルは、お花見やダービーと同じ春の季語になってしまっていて、
老境に入ったこのヘンコな作家が今年も元気でいてくれるというだけで、なんとなくウレシイ。


■ ランボー全集 全一巻  アルチュール・ランボー/金子光晴訳  雪華社  19770325 5刷

ランボーは何冊かもっているけれど、金子訳となると買わずにおれません。

翻訳もの、とくに詩のような韻文は、訳者でぜんぜん変わってくる、その違いかくの如し。

<粟津則雄 訳>

酔いどれ船

おれが非情の大河をくだっていったとき、
おれを導く船曵きの綱の覚えはもうなかった、
かしましい赤肌の蛮人どもが船曵きを的にと捕え、
色とりどりの棒杭に身ぐるみぬがして釘づけていた。

<金子光晴 訳>

酔っぱらいの舟

ひろびろとして、なんの手ごたえもない大河を、僕がくだっていったとき、
船曵きたちにひかれていったことを、いつしかおぼえなくなった。
罵りわめくアメリカ・インディアンたちが、その船曵きをつかまえて、裸にし、
彩色した柱に釘づけて、弓矢の的にした。

まあ最後は好みなんですが。


■ ティファニーで朝食を  トルーマン・カポーティ/村上春樹訳  新潮社  20080225 初版

ヘプバーンではなく、ミス・ホリー・ゴライトリーのキュートな寓話。

これぞ都会小説そしてこれぞカポーティという佳作で、単行本で本棚に並べられるのはうれしいし、
ハルキの訳もサリンジャーの時よりは雰囲気がでているけれど、わざわざ再訳する必要があったのか
どうかと思ってしまうのは、「キャッチャー」と同様、これもまたマーケティングのなせる業か。

オープニングを少し。

旧版 <瀧口直太郎 訳>

私はいつでも自分の住んだことのある場所 -- つまり、そういう家とか、その家の近所とかに
心ひかれるのである。

新版 <村上春樹 訳>
以前暮らしていた場所のことを、なにかにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたか、近辺に
どんなものがあったか、そんなことを。

<原文>
I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods.


・・・・ やはり原書で読みなさいということですね、これは。


■ 向田邦子の青春  向田和子  ネスコ/文芸春秋  19990528 2刷

向田邦子のエッセイは上質だと思う。

父の詫び状/眠る盃/夜中の薔薇、どの作品も軽妙で、品があって、文章がうまい。

遺作「夜中の薔薇」を読んでいるときに、ふとこの本に巡りあってしまった。
別にどうっていうことのない本だし、ちょっとオバサン趣味かなあとも思ったけれど、
こういうシンクロニシティを大切にしておかないと古本の神さまは微笑んでくれないのだ。

表紙のポートレイトが美しい。


■ 丘に向かってひとは並ぶ   富岡多恵子  中央公論社  19760705 再版

起きぬけに
きみが泣くことはない
それよりも
窓をあけて
入ってくる景色を
茶碗か皿にうけとって

とはじまる「 don't explain 」という詩や、

思い出さないで
あの長い時間のこと
きみがわたしにマッチをすり
そのすきまに
きみとわたしの目が合った

ちょっと切ないこの「長い時間」なんかが昔から好きだから、
この人の本があると、読まないのについふらふらと買ってしまう。

ひょっとしたらこれを「腐れ縁」というんでしょうか。


 

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庭に石をおいた。 

蹲ったような石塊が、最初からそこにいたような顔をして庭の片隅に収まっている。 

変わらないことが石の面白さだと、庭師が教えてくれた。 

変わらないものは変わりゆくものを映す鏡のようなものだから、 
この石が、日々移ろう草や木や花を、そして変わっていく自分を見守ってくれるかもしれない。 


久しぶりに山田風太郎の本を買った。 

□ あと千回の晩餐    山田風太郎   朝日新聞社   19970610 5刷

山田風太郎といえば、まずなんといっても忍法帖だ。 

過酷な運命を背負った忍者たちが奇想天外な秘術を尽くして死闘を繰り広げるというこの奇譚集
の一群(1958年の「甲賀忍法帖」にはじまって1991年の最後の小説「柳生十兵衛死す」まで 
長編・短編あわせて100作以上にもなるらしく、もちろん熱狂的なコレクターも存在する)、
最初はあまりのバカバカしさに腰がくだけそうになってしまうんだけれど、読み進めるうちに
どんどん引き込まれ、知らないうちにそのうち中毒症状となって次々と読みあさらずにいられなく
なってしまうという強力な麻薬性を持っている。

シュールとユーモアとエロスが渾然一体となったこの忍法帖シリーズの破天荒な面白さは、まさに
「 never a dull moment (退屈しないよ)」としか表現のしようがない。

ひとつ間違えばキワモノになってしまいそうな素材を、司馬遼太郎の歴史小説のように読ませて
しまうのは、品のある生真面目な文体とストーリーテラーとしての緻密な構成力、つまり小説家
としての資質の高さだろうし、イメージに流されることのない精巧な語り口は、この人が徹底した
唯物論者だということを物語っているんじゃないかと思う。

読むなら角川文庫の旧版(ピンクの背表紙)に限る。
佐伯俊男画伯によるカバーの官能的なイラストレーション(表紙絵というべきか)は、山風忍法帖と
一心同体、切っても切れぬなさぬ仲のミックスメディアと考えたい。

珠玉の一冊を選ぶとすれば、「風来忍法帖」か「忍法八犬伝」かな。


そしてエッセイ。

学生であった戦時中に書き記していた「戦中派不戦日記」や、「いろいろな徴候から、晩飯を食う
のもあと千回くらいなものだろうと思う」とはじまるこの「あと千回の晩餐」もそうだけれど、
ともかく自然体、ナチュラルな物言いが気持ちいい。

戦中派独特の虚無感のようなもの(太平洋戦争によってその後の人生にもっとも大きな影響を
うけたのはこの人や小林信彦さんの世代なんだ)を漂わせながら、その日その時の心の気配を
飄々と、そしてユーモラスに(真面目なご本人にそんな気はないようだが)、綴ってくれている。

中でもこの「あと千回の晩餐」の、「国立大往生院(仮称)」なる老人集団安楽死施設のはなしは、
強烈なブラック・ユーモアで、65歳で自死を選べるというこの話には、真剣にそれを望むお年寄り
からの手紙が相次いだらしい。昨今の年金や後期高齢者医療の問題を冷静にさきどりしていて、
「いろいろ考えたが、やはり老人の数をへらすよりほかにない」と、すでに老人である自らが嘯く
ところがなんともいえず痛快で小気味良い。

このエッセイが朝日新聞に連載されたのが1994年6月から1995年3月だから、山田風太郎は、
実はこのあと2千回以上の晩餐を食したわけだけれど、「長生きは一応めでたいことになっているが、
モノには限度ということがある」なんていうことをスラリという人だから、ウィスキーと煙草と本人が
名品と自賛する「チーズの肉トロ」をその日まで食べ続けていたのかもしれない。

それにしても「あと千回の晩餐」とはなんといさぎよく美しい言葉だろう。


あと八百屋お七16歳から泉重千代126歳まで932人の臨終の様を描いた全三巻(上下巻+1)、
1000ページを超える超大作「人間臨終図鑑」も忘れてはいけない。

希代の唯物論者山田風太郎の死生観は、実に明快で「人間死ねば終わり」その一言に尽きる。
だからこそ感傷的な気分が入りやすい人間の臨終場面なんていうものを、一編の散文詩のように
描くことができたんだろうし、死によって人の一生を描くという、じつは相当難易度の高いこと
(しかも932人!)を成し遂げられたのだろうと思う。

たぶんこの人がいちばん伝えたかったことは、この900余人の人生の業績や幸福と彼らの死に方
には関係がない、つまり死に方なんてホントはどうでもいいんだってということ、そして「虚無」って
やつは人間にとって根源的なもので、身近な存在なんだよということだったんじゃないだろうか。

2001年没 享年79、戒名は「風々院風々風々居士」、やはりユーモアは最高の知性なのだ。

ところでこの本、カバーの色調や使われている紙の質感がとてもいい感じだったので、奥付を
見たら、原研哉の装丁に志村節子の挿画だった、なんかちょっと得した気分。 



□ ルイス・カーン建築論集    ルイス・カーン   鹿島出版会  20060130 6刷 

カーンの建築論は詩のようだ。

カーンのその詩はとても素晴らしいものだけれど、彼の建築はもっと素晴らしい。

どんな建築論も、現実に建てられた建築物からしたら、一抹の砂にすぎないと思ったり。

でもこの本で講義している、オーダー、フォーム、シェイプ、インスピレーション、光と闇
といったカーン独特の抽象的なキーワードが、自分のリアリティとフィットしたときには、
きっと建物以上の存在感が、その人の中に住み着いてしまうんだろうとも思う。

けっきょくはひとつのことを言っているだけなんだろうな。 

そしてそのひとつのことをしっかり身体で感じとることができたら、カーンの図面や建物が
くっきりと見えてくるんじゃないんだろうか。 


□ マイルスを聴け    中山康樹   径書房  19920501 第1刷 

平岡正明も認めるマイルス・フリークによるマイルスのレコードガイド。

何より驚いたのは、「ウイ・ウォント・マイルス」の「Back Seat Betty」に関する記載で、
「そこから最初に抜け出すのが、誰あろうマイルスだ。3分4秒目のオープン・トランペット
の1発!」っていうところ。
これって、このブログ3月8日のエントリーで書いたこの曲のこと、
「マーカスのベースリードではじまる2曲目「BACK SEAT BETTY」では、3分04秒のところ
でのマイルスの鋭いハイトーンのブロウにいつも、必ず、鳥肌が立つ。」 
とほとんど同じじゃないか。

あの音を同じように感じている人のいることが何よりウレシイ。


□ テネシー・ウィリアムズ回想録   テネシー・ウィリアムズ  白水社  19781125 第2刷 

帰郷したときに実家の書庫から拾い出してきた。

テネシー・ウィリアムズは「欲望という名の電車」や「焼けたトタン屋根の猫」で有名な
劇作家だけれど、演劇というものにまったく興味がないのにどうしてこの本を買ったのか
(しかも2500円という高額の新刊だ )ぜんぜん思い出せない。
学生時代の青臭いスノビズムか。 

たぶん読了してはいないはずだし、これからも読みそうにない本だけれど、こうやってまた
本棚に並べるところを見ると、その青臭いスノビズムはちっとも直っちゃいないようだ。

翻訳者によるあとがきによると、「浮気と乱行、耽溺と嫉妬、狂態と奇行を次々に重ねた
驚くべき痴態記であって、傷ついた男の魂の放浪記」なんだそうで、そう言われると、
ちょっとそそられなくはないんだな、やはり。 


□ 花鳥風月の科学    松岡正剛    淡交社   19940226 初版 

松岡正剛の「千夜千冊」は本読みにとってひとつの橋頭堡なのかもしれない。

しかも日本文化の考察・編集というところでも、焦点が重なってしまうからなおやっかいだ。

「日本の歴史文化がつくってきたイメージの起源に多少の筋道をつけてみたい」
「今日本人が失っているかに見える、日本文化を説明できるグローバルで鮮明な論理を構築
するという試みを、『花鳥風月』という言葉を手がかりにして行ってみたい」
というのが本人が語る本書のコア・コンセプト。 

山/道/神/風/鳥/花/仏/時/夢/月 という10のコードによるプログラムだ。 

科学的というところにはいささか疑問を感じざるを得ないけれど、この人の博覧強記は
よく知られたところだから、「日本のソフトウェア」である「花鳥風月」が、そつなく
まとめられてるんだろうと思います。

でもなんとなくちょっと優等生すぎるような気がしてしようがない。

編集者に求められているのは、触媒として異素材をスパークさせることじゃないだろうか、
できれば HIP なスタイルで。 


□ 原色日本の美術30 請来美術(陶芸)   小学館   19720210 初版 

前々回のエントリーで紹介した「井戸茶碗の謎」を読み終えたら、井戸茶碗や高麗茶碗を
無性に見たくなってしまった(といってもただの大型カラー図版なんですが)。

やはり大名物の茶碗の存在感というのは、「焼きもの」を超越しているような気がします。
 
安吾先生だったら、なにがどうあれただの飯茶碗なんだから、それでお茶漬けでも食って
腹をふくらすことの方がよっぽど文化的だよ、なんておっしゃるかもしれませんが。



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