2008年7月アーカイブ
インテリアデザイナーという職種がある、日本ではあまり見かけないけれど。
アメリカのアッパーミドルの人たちが新しく家を建てたり、少しステップアップしたエリアに
家を買ったり(住宅を建築するのはアメリカではひどく高いのでこっちのほうが多い)した
とき、お約束のようにこのインテリアデザイナーを雇うことになっている。
アメリカは、「成りあがり(upstart)」がポジティブに許容される社会だから、自分の生活
環境を快適にするためにデザイナーを専属にすることが、ひとつのステイタスと考えら
れているし、社会生活の場で忙しい役職に就いていることの象徴だったりもする。
インテリアデザイナーは、建築家と同じように住み手となるそういう人たちの依頼をうけて
(日本での家造りと同じようにクライアント側の窓口になるのは奥様であることが多い)、
インテリアのコンセプトを練り、全体のテイストや基調色を決め、部屋ごとにカーペットや
壁紙やドレープを選び、それぞれの部屋に置く家具や絵画をコーディネイトし、そして
アメリカ人が大好きな壁いっぱいに飾る家族写真の額縁とその場所を決める。
新しい住居のインテリアパーツを考えることは楽しい作業ではあるけれど、それをトータ
ルにコーディネイトするのはなかなかやっかいなことで、予算的なことも含めてそれなり
の知識や経験やセンスがないとなかなかうまく収まってくれないし、建築のコンセプトと
も密接にかかわってくることだから、その仕事はきわめてプロフェッショナルなものだ。
そしてそういう職能を持ったプロが住まい造りにかかわることで、その全体がすんなりと
まとまるようになっている。
組織に属さずたいていがフリーとして独立しているインテリアデザイナーたちは、スタイリ
ストのようにトレンドに目を凝らし、自分だけのショップリストやアーティストのネットワーク
を持っているし、そういったプロのためのショールームが集まったファシリティーが大きな
都市には必ずある。
日本にも80年代に、インテリア・コーディネーターという資格ができて、実際にその資格を
持った人たちが何人もいるわけだけれど、店舗や建売住宅やマンションのモデルルーム
などのスタイリングをすることはあっても、 個人的に住宅のインテリアのプランを依頼され
るなんていうことは、あるんだろうか。
想像できます?
自分が家を建るときに、建築家とは別にインテリアのプロを頼む(=Feeを払う)なんて。
でもやっぱりそれが問題。
それっていうのは、デザイナーを雇わないことじゃなく、たとえば住宅のインテリアに代表
される個人的な生活の領域で、プロでしか持ち得ないソフトになんらかの価値を見いだして、
生活の向上を図っていくという合理的なプログラムが、ごくあたりまえの方法論として存在
していないこと。
たとえば弁護士や設計士は、難関といわれている国家資格のライセンス制度があること
で、そのソフトワークにたいする Fee の支払いが、社会的に認知されているけれど、デザ
イナーやコーディネーターと呼ばれる人たちの Fee は、たとえ相手が企業であっても驚く
ほど認知度が低く、往々にして物流マージンや作業料に転化されてしまうというのが実態
で、まして個人に対するインテリアのプラニングなんて、まずニーズがないということかも
しれないけれど、そういう仕事を志向している人がいるかどうかさえアヤシイ。
住宅のことで言うと、壁紙やファブリックだけでなく、照明器具や家電製品のセレクション、
水栓やレンジといった設備機器のチョイス、インテリアグリーンのコーディネーション、こう
いったことを建築家から奪えるようなインテリアデザイナーが現れたら面白いんだけどな。
そんなことを考えたのは、ある人に本のセレクションを頼まれたからだ。
10日間ほどの休暇で南の島に行くんだけれどそのときに読む本を何冊か、というような
要望で、もちろん知り合いからのものだから、彼のライフスタイルや旅のシーンを想像し
ながら、ああでもないこうでもないと本を選ぶのは、とても難しくて、そしてとても楽しい
作業だった。
何ヶ月か前に本を売らない本屋、「本のStylist」を考えているという記事をエントリーした
ことがあったけれど、そのときにはやはり企業やショップのことだけしか頭になくて、個人
の本棚や旅にもっていく本なんていうシチュエーションを考えもしなかったんだ。
でもふとインテリア・デコレーターのことを思い出したら、個人や特定のシーンのための本
のセレクションなんていうビジネスモデルもあり得るんじゃないかと妄想してしまったわけ。
まあでもそれで Fee をもらうなんて、10年早いね。
*
■ 茶室とインテリア 内田繁 工作舎 20050920 初版
座――脱ぐ文化、座る文化
間――柔らかな仕切り
風――涼味の演出
水――浄と不浄
火――炎の記憶
飾――空間の物語
祀――祈りと季節
色――彩りの力
心――住まいの将来
こうやって見出しを並べただけでも、この本の切り口が感じとれそうです。
茶室に代表される日本の空間文化を、インテリアを軸にわかりやすく解説したもので、
本はもちろん美しく、内容もさすがにしっかりしていてソツはないのですが、きわめて
感覚的な領域のことを、「わかりやすく」解説する必要があるんだろうかと思っていたら
桑沢デザイン塾の講義録がベースとわかってちょっと納得、プロを目指す学生諸君には
これくらいでちょういいのかもしれません。
■ 鞆ノ津茶会記 井伏鱒二 福武書店 19860401 第2刷
安土桃山期の茶会をフィクション(架空)で描くとは、恐るべき想像力、そして文章力。
太宰治や開高健といった手練の作家たちが私淑した人だから、昭和文壇の巨人の一人でしょう。
コノ杯ヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミ注ガシテオクレ
花ニ嵐ノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
酒と釣りの名人、そして東宝映画「駅前シリーズ」の原作者でもあります。
■20世紀ボックス 木村勝編著 六曜社 19980630 初版
表紙のデザインを見れば一目瞭然だけれど、タイトルは真木準によるパロディ。
日本を中心とした20世紀初頭からのパッケージやラベルが、日本のパッケージデザイナー
の先駆者木村勝さんのセレクションで掲載されています。
パッケージを語ることは、広告そのものを語ることでもあります。
この本の中で、とあるデザイナーが、「卵」こそがパーフェクトなパッケージ(殻や薄皮や
カラザや白身など、すべての要素が生命の源である卵黄を守るために有機的に連動し
ているそのシステムやフォルム)だといっていたのが印象的でした。
■ ラハイナまで来た理由 片岡義男 同文書院 20000304 初版第1刷
same old story だということはわかっているけれど、ついタイトルに魅かれてしまった。
ハワイから届いた絵葉書のような28の掌編。
どれも僕が主語だし、マイナーな出版社だったので、最初エッセイ集と勘違いしていました。
35年以上慣れ親しんだこの人でしかあり得ない文体や、変わることのない乾いた視線は
絶えることのない波の音を聴いているようで、安心感が高いのです。
■ 生きているのはひまつぶし 深沢七郎 光文社 20050730 初版第1刷
「ひつまぶし」ではありません。
87年に亡くなった深沢さんの18年ぶりの単行本だとか
「楢山節考」はそうとう凄いし(今は日本中が「楢山」になってしまったみたいだけれど)、その
存在感に、ただならぬ気配をビシビシ感じるので、こうやってこの人の本を買うわけですが、
赤瀬川原平や嵐山光三郎や白石かず子といった曲者たちが私淑する深沢さんのほんとうの
凄さは、実はあまりよくわかっていません。
このエッセイ集を眺めていても、マニアックなローカル・スターではなく、もう少し大きな人類
的なスケールの人ではないかと思いますが、まだ眼をつぶって象を撫でているような感じ。
読み込めばもう少し大きいものが見えてくるような気がします。
DVDを買った。
ひょっとしたらこのメディアをちゃんと購入するのは、はじめてかもしれない。
■ 気狂いピエロ PIERROT LE FOU ジャン・リュック・ゴダール 1965
きっかけは、ランボオである。
この前手に入れた金子光晴訳のランボオ全集を眺めているうちに、ゴダールのこの美しい映画
のラストシーンに、ランボオの詩が印象的につかわれていたのを思いだしたのだ。
自分を裏切ったアンナ・カリーナ(マリアンヌ)を撃った ジャン・ポール・ベルモンド(フェルディナン)
が自らのアタマをダイナマイトで吹っ飛ばし、その爆発の炎と煙をロングショットで捉えたカメラが、
ゆっくりとパンして南仏の海をとらえる、彼方に青い空。
そしてその水平線にアンナ・カリーナの物憂げな声がオーヴァーラップする。
── 見つかった、
── 何が?
── 永遠が、
── 海と溶け合う太陽が。
ヌーベルヴァーグのアイコン、アンナ・カリーナ(named by ココ・シャネル)とジャン・ポール・
ベルモンドが、まるでボニーとクライドのように(映画はこちらの方が後ですが)、破滅に向かって
進んでいくありさまを、あのゴダールが彼一流の大胆なカットと乾いた視線で鮮やかに、そして
切なく描いている。
顔に青いペンキを塗って、あれだけ否定していたピエロとして死んでいくフェルディナンの死に際が、
とてつもなく愚かしく、そして心に沁みる。
「勝手にしやがれ(A bout de souffle)」とならんで、ヌーベル・ヴァーグの白眉とされる1965年の
この映画は、今見ても頭がクラクラするくらい刺激的だった。
もうひとつランボオで印象的なのは、1983年のサントリーの CF だ。
誰もいない砂漠、あるいは荒野の光景。
火を吹く大男、天使の衣裳をまとった幼女、ジャグラー、軽業師、イグアナ、そしてナイフ投げ。
フェリーニや寺山修司を連想させるサーカスの幻想的な映像に、ナレーションが重なる。
その詩人は、底知れぬ渇きをかかえて放浪をくりかえした。
限りない無邪気さから生まれた詩。
世界中の詩人たちが蒼ざめたその頃、彼は砂漠の商人。
詩なんかよりうまい酒をなどとおっしゃる。
永遠の詩人ランボオ。
あんな男、ちょっといない。
(produce by 杉山恒太郎 / art direction by 高杉治郎 / copy by 長沢岳夫 / music by Mark Goldberg)
17才のときパリ・コミューンの中で「酔いどれ船」を書き、19才で「地獄の季節」、そして恋人の
ヴェルレーヌとの別れ、21才で詩を捨てて放浪し、あげくアラビアで武器商人になり、37才で片足を
骨肉腫で切断され、妹だけに看取られながら死んでしまった早熟の詩人ランボオ。
ヴェルレーヌだけじゃなく、中原中也も金子光晴も小林秀雄もボブディランもパティスミスもボウイも
メイプルソープもウォーホルもピカソもダリもケルアックもバロウズもヘンリーミラーもアナイスニンも
ピカビアも、みんなこの夭折した天才の ROCK にシビれた。
カッコいいから、たとえようもなく。
母音
Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たちよ、
おれはいつかおまえたちのひそやかな誕生を語ろう、
A、無惨な悪臭のまわりを唸り飛ぶ、
きらめき光る蠅どもの毛むくじゃらのコルセット。
かげった入り江。 E、靄と天幕の白々とした無垢、
誇らかな氷河の槍、白い玉たち、繖形花のおののき。
I、緋の衣、吐かれた血、怒りにくるった、
あるいはまた悔悛の思いに酔った美しい唇の笑い。
U、循環期、緑の海の神々しいゆらぎ、
家畜の散らばる放牧場の平和、学究の
広い額に錬金の術が刻む小皺の平和。
O、甲高い奇怪な響きにみちた至高の喇叭
諸世界と天使たちがよぎる沈黙
―― おおオメガ、あの人の眼の紫の光線!
(粟津則雄 訳)
ランボオのこのサイケデリックで難解な詩に、アルコールや大麻やオピウムといった麻薬による
覚醒の記憶があることは間違いないけれど、そのコトバの一粒一粒には、十代の、それも才能の
ある者にしか視えない宇宙とのブルータルな交感がある。
どんな17才にだってそういう感性が宿る一瞬はあるのかもしれないけれど、それを奇跡ともいえる
タイミングで引き寄せることができるのは、選ばれた者にしかできないことだ。
ROCK に殉じた Janis Joplin や Brian Jones や Jimi Hendrix や Jim Morrison のように、
この19世紀のフランスの詩人 Arthur Rimbaud にも、STONE JUNKY の称号を与えてあげたい。
でも、ひょっとしてスタローンじゃないほうのランボオ(ジョン・ランボーも、実はランボオへの
オマージュだそうだけれど)なんて、もはや死語の領域かもしれないな。
*
■ 朝鮮とその芸術 柳宗悦 春秋社 19720520 新装版第1刷
「民芸」って柳宗悦さんの見立てのことじゃないのかと思う。
対象となるアイテムは庶民の日常具だけれど、それを道具本来としては捉えず、その無名性を
主調とする芸術として彼が見立てたものだけが、民芸と呼ばれる。
この朝鮮の芸術にしても、それをそのまま受け入れたんじゃなく、独自のフィルターをかけて、
彼が再解釈できたものだけを絶賛しているように思えてしかたない。
なんにせよ新しい美を発見したことは間違いないから、その功績は素晴らしいものだけれど、
その「美」がユニバーサルにならなかったのは、「見立て」を再構築して誰にでもわかるモノサシ
が造れなかった(造らなかった)からじゃないんだろうか。
柳さんが無印良品を見たら、なんていうんだろう。
■ MAGNUM DEGREES phaidon Inc. 20031218
写真家集団マグナムの写真集、分厚い。
マグナムの一番の功績は、写真はアートディレクターや編集者のものではなく、それを撮った写真
家のものであるということを、インターナショナルなレベルで認識させたことじゃないかと思う。
ただどのムーブメントにもあることだけど、60年の歴史を経て、革新的集団がエスタブリッシュメント
になってしまったことが、ひとつのジレンマかもしれない。
世界の主要雑誌に掲載された報道写真がメインのこの写真集を眺めていると、そのまま20世紀の
クロニクルを見ているような思いにとらわれてしまう。
でもそれが必ずしもいいことだと断言できないところがアートの難しいところで。
■ ビートニクス コヨーテ、荒地を往く 佐野元春 幻冬社 20070911 第1刷
佐野元春にあんまり興味あるわけじゃないけれど、ビートニクスはちょっと見過ごせない。
いまどきギンズバーグやスナイダーやケルアックに熱心なミュージシャンなんてちょっと変態的。
ビートは面白いけど、ピッピーはどうもあんまりっていうのが、この人の立ち位置なんだろうな。
そのへんがいかにも佐野元春っていう感じだけど、まあそれもアリかと思ったり。
「Kerouac His Hometown of Lowell」というジャック・ケルアックの生地を訪ねた短いドキュメント
のDVDが特別付録でついていました。
それにしても「ニュービートジェネレーション」っていったい誰のことなんだよ。
■ 打ちのめされるようなすごい本 米原万里 文藝春秋 20061130 第4刷
未読、でもチラ見だけで技量はわかる。
Amazonのレヴュワーたちのように、癌を患いながらも好きな本を読み続けることがそんなに凄い
ことだとは思わないけれど、書き手としてのこの人の手練は、この本のそこかしこに現れている。
書評ってけっきょくしっかりとした視点を持っているか、もっといえばものごとを自分の頭でちゃんと
考えられるかどうかどうかで評価が決まってしまうものじゃないかと思うけれど(新聞の書評なんか
を読んでいても、もっともらしくいい加減なことを書いている人がほとんどですから)、肝の据わった
女性は、男以上にブレないということがよくわかる。
いい書評の問題は、読まなくてもわかったような気にさせてしまうことと、読みたくて我慢しきれなく
なるなることを同時に読んだものに味わわせてしまうことだから、そういう意味では大合格。
タイトルはあまり気に入らない(ご本人が存命ならこんなタイトルにはなっていないだろう)が、
この本がそうなんだという編集者の気持ちはよくわかる。
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