2008年8月アーカイブ

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なんともシビレる男前なフレーズ。
こんな風にピンポイントに胸に突き刺さってくる言葉に出会うことは、それほど多くはない。

しかもそれが本のタイトルなんだから、これはもう買うしかない。 


■ だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ  都築響一  晶文社  20080228  初版


しかも帯にはこうある、「そんなに買って、読めるのか!」


that's it, you are absolutely right Kyou !


べつに何を探すでもなく、深夜朦朧として amazon をさまよい歩くうちにたどり着いた一冊だけれど、
今手元にあるこの本を眺めていると、なんとなくこの本がもっている目に見えない引力に呼び込まれ
たような気がしてしかたがない。

いってしまえば、コトバノイエの本のすべてが、こういった必然ともいえる偶然のめぐりあいの残滓だが、
そのタイトルにシンパシーを感じて手に入れるのは、ちょっと気分がちがう。

しかもそれがクリックひとつで、いつの間にか手元に届いてるっていうこのハイパー感。


すべての本に作者や編集者がいて、そのどれもに書かなければならなかった理由や、書籍という
カタチにして世に問いたい思い入れみたいなものがあるわけだけれど、それを買わなきゃならない
と思う人がいつもいるわけじゃない。

本と人との出会いは、たまたまだったり、なんとなくだったり、これしかないだったり、出会い頭
だったり、いやいやながらだったり、そんな気なかったのにだったり、ある日突然だったり、僭越
ながらだったり、まあ100あれば100のシチュエーションがあるわけだけれど、本を読むこと、そして
買うことが好きな人にとって、「だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ」 という
このメッセージは、ど真ん中のストレートなんじゃないかと思う。

しかもそれが古本だとしたら、それは純粋に「だれも買わない本」じゃなくて、「だれも買わない本」
のバツイチのようなものだから、いっそうコクが深い。


本買人の心意気はこうだ、 だれも買わないかもしれないけれど、面白そうならオレは買うよ。


「読書と人生のリアリティ」と名づけられた、この本の序に曰く、

「似合わないよ、それ!」とみんなに笑われて、
でも大好きな服だから、
いつまでたっても、いくつになっても着つづけてる人たち・・・
40代のゴスロリ少女や、60代の長髪ロックじじいや、
そのほかたくさんの
" いい歳して、まわりが見えてない " 人たち。
そういうふうに本とつきあえたらと、いつも思う。
「読むべき本」じゃなくて、
「読みたい本だけを全力で追いつづけること。
それが世間的にどんな恥ずかしい本であっても、
他の本で隠してレジに持っていったりしないこと。
満員電車の中でも、堂々と開いて読むこと。
紀伊國屋のカバーなんか、かけないこと!
そういう読書人に、僕はなりたい。


そう、本は、どこかの本棚でいつも待ってるんだ。
売れる売れない、買う買わないは、ただのなりゆきにしかすぎない。


書評はブックセレクションでもある。
ブックセレクションは、思想やライフスタイルの反映でもあるわけだから、この書評集にとりあげ
られたいささかマイナーな本たちは、そのまま著者である都築さんの life につながっている。

都築響一さんは1956年生まれ、フリーランスのライター・編集者でありながら、写真家としても
「ROADSIDE JAPAN - 珍日本紀行」という作品で木村伊兵衛賞を受賞している手練。
この人の仕事の総体をサブカルチャー/B級好みと括るのは簡単なことだけれど、ひとつひとつ
の仕事を検証してみると、ひとつの大きな関心として、マイナーなのに存在感のあるもの、という
テーマが浮かびあがってくる。 きっとそれが彼にとっての「リアル」なんだろう。

この最新の著作(少し前のものかと思っていたら今年に入ってからの刊行だった)でも、その
「リアル」のモノサシにそった本や本屋が集まっていて、そういう意味で、この「だれも買わない」
本たちは、彼にとっての珠玉といってもいいのかもしれない。
そしてなによりも自腹で買って評するという、今や凡百の文筆家たちがとっくに忘れ去っていると
思われる批評の原則を貫きとおしているそのスタイルに、この人のROCKを感じる。

「おぞましい」という言葉にこだわって朝日新聞の書評を蹴っ飛ばすところなんかは、なかなか。


「路傍に転がる真実」か。


眼が濁っていたら、偏在する真実はけっして見えてこないんだろうな。


*


夏の終わり、野暮用にまみれていつもの本買ができず、禁断症状を不得手なネットで紛らす。

そうしてなんとなく集まったのが上記を含めた何冊かの本や本屋にまつわる本。
気がつくといずれも晶文社の本、してみるとさまよい歩いたのは晶文社の森であったのか。
不如意、仏の手で踊る孫悟空のような気分である。

来月は買うぞ。


■ 古本屋月の輪書林    高橋徹   晶文社   19980805 3刷


■ ボマルツォのどんぐり    扉野良人   晶文社   20080420 初版



最近追加した 建築 のブックリスト


 

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少し長いけれど引用する。

体型は、羽根枕型。ふっくら焼き上がった切り餅の香りが立ちのぼりそうなすべっとさらっと
した肌。髪はショートのチリチリパーマ。顔はすっぴん、なべて丸顔。眉薄く八の字、目小さい。
お乳は小振りの滴型。ちょっと左右離れ気味だが、垂れ乳と称す程のボリュームはない。
乳頭は色薄くこぢんまり。突起が低い(陥没かと思われる例多し)。尻は丸四角。写植でいう
ナールの趣。乾パンふたつ並べた景。ウエストが、ない。でも、膝から下が、秋刀魚のように
スリム。方々から寄せ集まったにしては、何故かくも如実に浅草体型が確立するのであろうか。
オバチャンが一列に並んで、背中流しっこする様は、コアラのマーチさながらだ。ぱくり一口に
頬張りたい位、愛くるしい。                                                (饗の四 東京浅草「蛇骨湯」)


女体は、炊きたてコシヒカリ。つやつやぷりぷり、湯を珠と弾く。急傾斜なで肩、下半身なすび型
ぽってり充実。乳輪大きく、新竹の子の腰周りに似、堅そうに赤みを帯びて、くっきり粒立つ。
乳頭小豆大。ネルドリップ袋型垂れ乳。後姿、掛け軸の裏の如し、偏平尻。陰毛薄し、ぱやぱや
と間引かれたアルファルファ。下腹のボリュームに比し、肢はしんなり華奢。ことに足首から下は、
子供並に小さい。にんにくの皮を剥いたような、くるりんとした踵。鞘から弾ける枝豆の指五本。
掌にすっぽり入る、表面吉野葛仕立ての練り切り、初夏の茶菓の趣。纏足を想う。裸足フェチなら、
即座に脊髄へ電流が疾るだろう。                             (饗の七 新潟県関川村「上関共同浴場」)


わし(わしとおぬしのわし)こと、杉浦日向子さんの銭湯めぐりの一節。
「舞妓さんの、おっぱい。」のその先である。

尻は写植のナールとか、乳輪はブランデーグラスの脚底部のサークルサイズとか、陰毛薄し、
ぱやぱやと間引かれたアルファルファとか、女のひとが生の女体を描写すること自体けっこう
珍しいことだけれど、こんな表現みたことない。

まさに metaphor の力。


■ 入浴の女王     杉浦日向子    講談社    19950920 第1刷


面白い、ひたすら新鮮。

避暑地の山中で読みはじめたら止まらない。

子供のころ友だちと待ち合わせた銭湯で(置き道具して毎日銭湯に通ってる友だちがうらやまし
かった)、番台のおばちゃんにお金を渡すときのあのワクワク感や、湯上がりに、専用のピンで
ビニールごと紙の蓋をはがして飲むコーヒー牛乳のうまさ、そして学生のころ通った京都寺町の
鄙びた銭湯の湯気の匂いや、はじめて入った東京の銭湯の信じられないあの熱さ。

この本を読んでいると、身体に残っているさまざまな銭湯(関西では風呂屋といったほうが気分
かもしれない)の記憶が、リアルによみがえってくる。


銭湯はいいョ、女湯じゃなくても。

キッチュなタイル絵、ケロリンの黄色い湯桶、今にも壊れそうな籐の椅子、坪庭の池にいる鯉、
ちょっと古ぼけた扇風機、大きなカンカン、木の鍵がついた下足箱。

すべてのパーツが、小ざかしい計算を越えて、一心不乱に、入浴という悦楽に向かってる。

人間の行為で、おもわず極楽昇天ボイスがでるのは、飲食と性交、そして入浴だけかもしれない
と、ふと思う。


「まず、行って、全身で、その地を味わってみさんせえ。理屈じゃねえ。言葉じゃねえ。湯から肌
へ、おもいがつたわる。頭じゃねえ。小手先じゃねえ。毛穴が知る情報がある。」


銭湯を貧乏臭いものに貶めたのは、「神田川」のちっぽけなセンチメンタリズムじゃないかと思う
けれど、1958年生まれのフォーク世代の人が、こうやって豪快に快楽装置と しての銭湯を、それ
もノスタルジイではなく、リアルタイムのものとして語っているのは、なんとも爽快だ。

世の中のあれこれには、いろんなモノサシがあるけれど、生きている人間にとっては、快楽原則
こそが、もっともナチュラルな行動原理なんだから、まずは自分にとって気持ちいいコトを考える
ことからしか、明るい未来ははじまらないんじゃないだろうか。

快適じゃなければ、地球なんてなくなったっていいんだ。


「極楽は、ちょっと手を伸ばせば届くとこにある。地獄は、うっかりよろけるその足下にある」


足下にある地獄は、どこへいっても無くなるものじゃないから、ちょっと手を伸ばして極楽のドア
をひとつずつ開けていくしかないよね、よろけないように気をつけて。


こういうけっして隠棲したり出家したり純文学したりしない funky な女流作家は(「若隠居」という
自称は、持病との闘いをカムフラージュする、いかにも江戸っ子的なシャイネスだったようだ)、
日本では稀有なだけに、夭折がとても惜しい。

ファンの間ではすでに傑作として名高いという、「百物語」と「百日紅」を、amazon でキャッチ。


なんとなく、うまくお付き合いできそうな予感がします。

 

*

 

■ アジア旅人   金子光晴/横山良一編  情報センター出版局  19980314  第1刷

ろくに読みもしないのに、金子光晴という名前にこんなに惹かれるのはどんな刷り込みなんだろう。

段ボールのケースに横使いの造本、横山良一という人が撮ったアンダー系の写真のキャプションの
ように、「ドクロ杯」や「マレー蘭印紀行」をはじめとする金子光晴のアジア放浪記や詩が重なる。


洗面器

洗面器のなかの
さびしい音よ。

くれていく岬の
雨の碇伯。

ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。

人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。

洗面器のなかの
おとのさびしさを。


どこまで視えているのか、妻を連れた旅の途中でこんな独白ができる詩人の魂に、ひたすら感服。
      

■ 南青山ギャラリー物語   酉福店主青山益朗編   コエランス  20030415  初版

南青山という地名だけで、なにかしらソフィスティケーションの気配を漂わせているように思って
しまうのは、田舎者の僻目か、しかもギャラリー。

酉福という陶磁器を中心としたギャラリーで開催された個展の回顧録。
こんなしっかりした装丁の本を自社出版できるのは、かなりの余裕がないとできることじゃない。
写真がモノクロなのは愛嬌か。

資料的な価値はそれほどありませんが、本棚での存在感はなかなかのものです。


■ 対詩 1981.12.24-1983.3.7      谷川俊太郎/正津勉  書肆山田  19830615 初版1刷

谷川俊太郎と当時気鋭のアメリカ帰り正津勉との往復書簡形式の詩のやりとり。

付録の対談でも明らかなように、若手をチェックして、できればちょっと牽制しておきたいという
谷川さんのプロとしての本能の閃きがなければ成り立たなかった本ではないかと思います。

とても丁寧に造本されていたことと、書肆山田という版元の本がはじめてだったので買った本ですが、
80年代の本なので、こういった現代詩の詩集のなかにさえ、バブル夜明け前の雰囲気が漂っていて、
時代というものの不思議さを感じさせてくれます。

お互いに緊張感をもっていたはずなので、詩のクオリティもかなり高いのではないかと思います。
リラックスしているのは、もちろん谷川さんなんですが。


■ 横尾忠則の画家の日記   横尾忠則   アートダイジェスト  19870216 初版                  

最近ちょっと意識して集めている80年代クロニクル、横尾さんの80-87日記。

筆まめな人なので、ほとんど毎日の記録が残されていますが、この日記がはじまった80年は、彼が
ニューヨーク近代美術館で開催されていた「ピカソ展」に触発されて、グラフィック・デザイナー
から、画家への転身をした年ですから、彼にとってひとつのエポックだったんじゃないでしょうか。

1000P近い大著なので、流し読みしかできていませんが、どんなときもハードに制作をし、勉強を
欠かさないその姿勢には、いつもながら感心させられます。

個人的には84-86年のところで、知り合いが何人か登場するのが嬉しいところ。


エッセイ・詩・小説などのブックリスト 

 


 

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朝から蝉が五月蝿い。

暑さのせいで、ふだんはそれほど気にならないことに不機嫌の虫が騒ぎだす。


3車線の真ん中をとろとろ走っている軽自動車、運転しているのはオバサン。
オバサンはひたすら前方を見つめていて、自分が流れを澱ませていることには気づいていない。

一番左のレーンを走ると路上駐車の車があって、その車をかわすには右後方から走ってくる車
を確かめながら、いったん車線変更してもとのレーンに戻るという、やや難易度の高い動作を
しなければならないから、それがヤダという気持ちもわからなくはないけど、だからといって、
堂々と真ん中のレーンをゆっくり走られるのは、その後ろの車にすれば迷惑この上ない。

周りのこともぜんぜん見えてないけれど、じつはそんな自分の姿も全く見えていない。

これってマナーの問題というよりも、「無意識過剰」とでも呼ぶべき病理なんじゃないのか。

窓から火のついた煙草を平気で捨てるガキ、ウィンカーも出さずに割り込んでくるイラチオヤジ。
絶対的安全運転しかしない教条もみじマーク、意味のない信号、まっすぐ走ってると自然に右折
レーンに流されてしまう陰険なホワイトライン。

If I had a hammer, I'd hammer  on nasty traffic.


文字が汚すぎるぞ windows 。
ほぼ毎日 windows XP のマシンと  OSX leopard を使っている。
たいした作業をしているわけじゃないから、操作性や全体のインターフェイスは、まあなんとか
我慢できる範囲だと思うんだけれど、フォントの汚さはちょっと耐えがたい。
書く気しないもん、仕事じゃなきゃ。

アップルのジョブスが、大学をドロップアウトして、書法(calligraphy)のクラスを聴講して
いたことが、Mac のフォントがきれいな理由のひとつで、ジョブス自身も、こういっている。

「もしも,私が大学であのたった一つのコースに巡り合っていなかったら,マックは複数の書体
やプロポーショナルフォントを搭載していなかったでしょう。そして,ウインドウズはマックを
ただ単にそっくり真似ただけですから,おそらく,どのパソコンも複数の書体やプロポーショナ
ルフォントを搭載していなかったことになるでしょう。」

フォントなんていうのは GUI の基本中の基本で、極端なことをいうと、書くものの内容さえそれ
で変わるといってもいいくらい重要なものだし、技術的に決して難しいものじゃないはずだから、
OS にきれいなフォントを採用しないのは、単純にセンスの違いっていうことだけじゃなく、イン
ターフェイスやOSに対する考え方、さらにはパーソナル・コンピュータというツールの捉え方の
方向が違ってるとしか思えない。

要するに判ればいいじゃん、文字なんて、といった効率主義。

それってやっぱりHIPじゃないよね。

If I had a hammer, I'd hammer on Microsoft.


兵馬俑を掘り出してきたのかと、一瞬思った。
オープニングの光のアレンジがちょっと新鮮だったので思わず見入って、けっきょく最後まで
見せられてしまった開会式のセレモニーだったけれど、あれだけデジタル的な表現が、すべて
人民の手で行われるって、中国らしいといえばそうだけど、ちょっと気味悪くありません?
北朝鮮のマスゲームみたいだし、一人はただの1ピクセルといわれてるようで。

そこにいたるまでどれほどの強制があり、どれほどの自由が奪われてきたのか。

「他人の空似」というのは浅田次郎さんの言葉だけれど、中国人とアメリカ人がなんとなく
似てるって感じることが、確かにある。
基本的に大雑把、大きいものと派手なものだけを美しいと信じる感性、成り上がりを賛美し、
金持ちが正義と唱える拝金主義、そして自分の国が世界の中心だと盲信しているところ。

遠い過去には中国に朝貢し、今は親分アメリカの代貸しをつとめる日本からすると、このよく
似た2つの国柄が、ロシアのように陰険でなかったことを喜ぶべきかもしれないと、新たな
戦争のニュースを聞いて、ふと思う。

anyway, If I had a hammer, I'd hammer on olympic in China.


この他にも、自分大好きブログのことや、面白くない漫才、出ない携帯電話なんていう不機嫌
の元はあるんですが、汗をかきながらこれを書いていることさえ気に入らなくなってきたので、
今日はこれくらいにしといたる。


*


際立った掘り出しものがなかったせいか、初見の著者の本が集ってきた。
もちろんアタリもハズレもあるんだろうけど(内心かなりの確率でハズレじゃないと思ってる
んですが)、こうやってバリエーションが増えることは悪いことじゃない。

こういう新しい世界の本を読まないで手離すのはもったいないから、がんばって読もうっと。


■ 体の中の美術館   布施英利   筑摩書房  20080620 第1刷

この本のことも、著者のこともぜんぜん知らなかったけれど,「カン」で。

すばる望遠鏡や重森三玲の庭やイサム・ノグチの石肌やヘンリー・ムーアの彫刻やコルビュジェ
のサヴォア邸や藤森照信の高過庵やバリー・ボンズを、ひとつのコンセプトで語った本が面白く
ないわけがないと思います。

「芸術はどこで生まれるか? ヒトの体で。それがこの本のテーマだ。」

「人は、目と脳と、そして体で見る。」

ゲルハルト・リヒターの「髑髏」をあしらったジャケットも秀逸です。


■ 道化的世界   山口昌男   筑摩書房  19750630 初版第1刷

これはジャケ買い、奥付を見たら平野甲賀装丁でした。

何ヶ月も前から気になっていた一冊だけでど、なかなか手にとるところまで至らず。
こういう場合たいていは他の誰かがもっていってしまうものですが、このタイミングで本棚に
入ってくるのはなにか「縁」があったというべきでしょう。

いわゆる文化人類学、その文脈での道化とはトリックスターのことで、もちろん肯定的な評価。

「道化は硬直化した秩序のいたるところに軽快な身振りで登場し、脱臼作用(=イタズラ)を
仕掛けてまわる----- さまざまな現実のレヴェルをダイナミックに捉えてゆく感受性や方法論を
鍛えるためにこそ、〈道化〉的知のモデルが求められている。」

あまりよく解ってるわけじゃありませんが、トリックスターが極めて知的な存在であることは
明白で、モラルや規範を飛び越える(これを革命ともいいます)ためにはそういう常人の域を
はみだす存在が、「道化(はぐらかし)」ることが、ひとつのポイントかもしれません。


■ 十一面観音巡礼   白洲正子   新潮社   19801020 八刷

数ある白州正子の著作の中でも「かくれ里」と並ぶ名著だと思います。

青山二郎さんに「韋駄天お正」と名づけられたあだ名さながら、フットワーク軽く各地の仏像
を巡り、自身がもっとも愛する十一面観音を滋味深く語ったこの本には、文筆家としての白洲
さんのすべてがあるといっても過言じゃないでしょう。

彼女の古典に対する教養と、工芸や骨董をとおして得た審美眼で見つめた「日本と日本人」が、
仏像を軸に、随筆という柔らかい形式で綴られているところにこのひとの唯一無二を感じます。


■ 入浴の女王     杉浦日向子    講談社    19950920 第1刷

2005年に若くして亡くなった女流漫画家・江戸風俗研究家の銭湯めぐり。
あの荒俣宏さんの元妻であったことを wiki ではじめて知りました。

名前はもちろん知っていましたが、この人の本を買うのは初めてで、タイトルと、それに呼応
するようなご本人の手になるジャケットのイラストのなまめかしさに惹かれておもわずレジへ。

「舞妓さんの、おっぱい。」、こんな書きだしではじまる銭湯巡りはやはりチャーミング。
大阪では生野区「源ヶ橋温泉」が登場しています。

風呂好きとしては、かなりそそられる題材ではあります。

 

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