2008年9月アーカイブ

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秋日好天。

J.J.氏じゃないけれど、散歩していると思わぬ lucky にめぐり逢うことがある。


hhstyle というインテリア・ショップで、ルイス・バラガンの作品集を手に入れた。
それも 300 x 300mmの大型本を破格のバーゲンプライスで。


■ ルイスバラガンの建築   斎藤裕   TOTO出版   20010701 第2版第2刷


まずその鮮烈な色彩に、そして絶妙に計画された光と影に惹かれる、おそらく風もそよいでる。
でもじっとそのたたずまいを眺めていると、ただならぬ「奥行き」に気づく。

バラガンの建築は、祈りに近い。

リビングにあるプールの陰影が異彩を放つヒラルディ邸 (Casa Gilardi)のフォトジェニックな空間
構成も素晴らしいけれど、なんといっても、86歳で亡くなるまでの40年という時を過ごし、今は世界
遺産にもなっているその自邸 la casa luis barragan は、珠玉とでもいうべき作品だ。

大きな格子状の高窓から射し込む柔らかな朝の光に包まれる書斎。
庭の木々を通してフルスケールのガラス窓から変化に富んだ西陽が降りそそぐリビングルーム
すべて庭に向き、庭が最も美しく感じられる位置に窓が切り取られた寝室やダイニング。
周囲の喧噪や視線を彫刻的な壁で遮断し、空と自分だけが向かい合える屋上のテラス
メキシコの強い太陽を受けて、荒々しく生い茂る境界のない庭。

どのスペースも、ひたすら独り静かに暮らすことへの願いに満ちていて、家族の気配を微塵も
感じないストイックな空間なのに、厳しさではなく、穏やかさを感じるのがとても不思議だ。

「そこに身を置くと静寂のなかで生きる喜びを心から実感できる」 (by 安藤忠雄)

ひたすらserenity(静謐)を希求し続けたバラガンの魂が、たぶんそこにある。


そして階段。

オブジェのように美しい階段。

どうしてこんなに心が震えるような階段が造れるんだろう。

敬虔な光にあふれる玄関ホールのゆるやかな溶岩の階段は、天へのきざはしとしか思えない。
書斎のキャンティレバーは、中空に浮かぶ不思議な乗りもののようだ。

この自邸だけじゃなく、この本に掲載されている建築のどの階段も、なんの変哲もないものばかり
なのに、まわりの光や色や空気感をとりこんで、原初からそこにあるような佇まいをもっている。

バラガンの階段だけを切とっていつまでも眺めていたいとさえ思う。


バラガンは、architect's architect だ。

メキシコにしか作品を造らなかったバラガン。
素朴なテクスチュアの壁を、花の色や空の色や大地の色に塗りつづけたバラガン。
天上からの官能的な光に、おそらく神を見ていたバラガン。

バラガン見立ての mexico 数寄、あるいはバラガン婆裟羅とでもいうべきか。

バラガンの建築を見ていると、彼のなかでは、若き日にパリで浴びたモダニズムとメキシコ人
としてのアイデンティティとが、境界線なく交わっていることがとてもよくわかる。

ルイス・カーンをはじめとして、この孤高ともいえる建築家を敬愛する建築家は少なくない。


馬好きとすれば、厩舎をアーティスティックにデザインできる建築家に、ひたすら脱帽です。

luis barragan official website

 

*


■ 雷鳴の頸飾り ― 瀧口修造に     書肆山田   19791210 初版

シュルリアリスト瀧口修造の追悼詩集。

いい本だな。
佳い感じに時を重ねた古本がたまにあるけれど、この本はそんな一冊。

体裁、デザイン、タイトル、そしてその詩のクオリティ、本としての完成度も高い。
なかでも巻頭の、ミロが瀧口修造の名前を織りこんで描いた絵は、秀逸。

こんな追悼集をだしてもらえる詩人は幸せだと思います。


■ 海図と航海日誌    池澤夏樹   スイッチ・パブリシング  19951215 第1刷

作家の父と詩人の母をもつサラブレッド、池澤夏樹の書評集。

決して彼のいい読者ではないのだが、植田正治のジャケットと、そのタイトルに惹かれて。

本というものの役割を、「日々の糧と回心の契機」の混合だと、池澤さんは序文で言っている。
そりゃあそうなのかもしれないけれど、こういう風に硬質に迫られてしまうと、それはちょっと
いい子すぎるんじゃないのと、つい冷やかしたくなってしまう。

a little too square,   なんか音楽の趣味がぜんぜん違うような気がするんだ。

最後の章、「寄港地一覧 あるいは九十九の小説」は、格好のカタログではあるけれど。


■ 土星の徴しの下に    スーザン・ソンタグ    晶文社   19911220 第5刷

ソンタグ ― 晶文社、しかもレア・アイテムとくれば、不見転です。

「私は今これをパリの小さな部屋で書いている。」という、鞘からそおっと刀を抜くような書きだし
から、アントナン・アルトーを中心にヴァルター・ベンヤミンやロラン・バルトやファシズムのこと
などを、彼女らしいシャープな語り口で綴っています。

「知性」を絵に描けばこのようになるのか。

訳者あとがきによれば「スーザン・ソンタグがこれまで書き得た最も見事な評論集」であるらしい。

本棚にあるだけで充分の一冊、これを書いた1980年はおそらく彼女のピークじゃないでしょうか。


■ 詩人のノート ― 1974.10.4-1975.10.3    田村隆一   朝日新聞社      19780920 第3刷

詩人のエッセイを読むのは楽しい。
ひとつひとつの言葉の粒が立っているから。

田村隆一は詩人という言葉が似合う人だ。

丸谷才一によればこうだ。
「彼は、あるいは日記をつけるやうに、あるいは葉書を出すやうに、そしてあるいは冗談を言ふやうに
詩を作る。つまりここには、現代日本には珍しく、ライト・ヴァースの作者がゐることになる。」

いつも飲んでいるのに、あまり酔いどれな感じがしないのは、この人の都会的な人柄ゆえか。

引用されている詩がどれも素晴らしい。
詩人の選ぶ詩にはなんともいえない独特の味わいがあります。

*

BOOKS+コトバノイエ 1st anniversary の企画を開催しています。 chech it out !

建築家矢部達也さんが選んだBOOKS+コトバノイエの30冊




 

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blog と称しながら、日誌でも日記でもないものを書き綴っている。

RSS( あるいは Atom )というたいへん便利なシステムで購読(ちょっとへんな言葉だなあ)している
いくつかのブログを眺めていると、いわゆる日々の徒然を日記風にというのが主流で、みなさんたい
へんマメに更新していらっしゃる。

日記風を読むことは、なんか覗き見の気配もあって、それなりに楽しいんだけれど、読ませる工夫の
ない垂れ流しのモノローグや自己陶酔に、辟易とすることもたまにあって(まあTVと同じで文句がある
なら見なきゃいいんだろうけれど)そういうことがあると、そんなことべつに公開しなくてもいいん
じゃないのっていう気分になってしまうのだ。

逆にいうと、「垂れ流しのモノローグ」にならない日記風のブログを続けられる自信がないわけで。
それもほぼ everyday なんて驚異的としかいいようがない。

なんか不思議なメディアだなあと思う。

「書きたい」人がこんなにいたことも驚きだし、このたくさんの「書きたい」人たちは、このブログという
メディアができるまでどうしてたんだろう、そして「書きたい」人たちはこのまま書き続けるんだろうか、
などと思いつつ。

*

柳の下の2匹目の泥鰌かもしれない。

「だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ」に続き、題名の長い本を手に入れた。

こういうシンクロニシティーには、3回目まではつきあうべきだ、というのが経験則。
べつに合理的な根拠があるわけじゃないけれど、2度あることが3度あるのは統計学的な真実だ。

■ 洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵    洲之内徹   求龍堂  20080610 初版

小林秀雄から「いま一番の批評家は洲之内徹だね」と激賞され、青山二郎から「『芸術新潮』では、
洲之内しか読まない」とまで言われたエッセイ「気まぐれ美術館」。

洲之内徹は銀座「現代画廊」のオーナーで美術評論家、1987年に亡くなったあと、彼のアパートメント
に残された146点の絵画が「洲之内コレクション」として宮城県美術館に収蔵されている。

この本は、そのコレクションのカラー図版と、その絵にまつわる洲之内さんの文章からなる画文集だ。
 
「一処不在の私の、絵が故郷なのだ。」と語る無頼の人にとっては不本意な結末かもしれないけれど、
「盗んでも自分のものにしたかった」ほどに惚れ込み、「ともかく好きな画家、好きな絵だけを選び、
とくに人口に膾炙していない画家の発掘には、どんなところに出向いても交渉し、執拗な入手を果た
している(by 松岡正剛)」といわれたコレクションを目の当たりにできることは僥倖というべきだし、
その146点の絵画たちが、「気まぐれ美術館」や「帰りたい風景」の滋味深い文章とともにカラーで
掲載されたこの本は、muse からのプレゼントのようなものじゃないかと思う。

洲之内さんのキュレイションは one and only 、それは「目利き」というより「偏愛」を感じさせる。

個々に見ていくと、思い入れが強すぎてそれほどピンとこない作品もあるけれど、いわゆる批評から
一歩も二歩も深みのある文章が重ねられたとたんその絵は輝きだし、いわば画文一体とでもいうべ
き境地にはいったその作品は、画家の手を離れ、洲之内藝術と化す。

「利行(長谷川利行)のタッチはひょろひょろしているようでひょろひょろでなく、へなへなのようで
へなへなでなく、形はでたらめのようででたらめでなく、利行独得の澄んだリズムを持ち、妖しく美しい
フォルムになっている。ところが偽作の利行は、利行らしく見せようとして、ひょろひょろを真似する
からほんとにひょろひょろになってしまい、でたらめを真似してでたらめになってしまう。そして、その
ひょろひょろとでたらめを利行だとおもっている人が、いつもその偽作に騙されるということになる。」
(気まぐれ美術館)

この前のエントリーで書評のことを書いたときにも感じたことだけれど、批評のリアリティは作品への
「尊敬(=愛)」からしか生まれてこないんじゃないかと思う。

小林秀雄がこんな風に言っている。

「いい批評はみな尊敬の念から生れている。これは批評の歴史が証明している。人を軽蔑する批評
はやさしい し、評家はそれで決して偉くならぬ。発達もない、創造もないのです。フランスにも
admirer, c'est egaler(敬服するとは匹敵することだ)という諺がある。」

そしてさらに

「真っ白な原稿用紙を拡げて、何を書くか分らないで、詩でも書くような批評も書けぬものか。例えば、
バッハがポンと一つ音を打つでしょう。その音の共鳴性を辿って、そこにフーガという形が出来上る。
あんな風な批評文も書けないものかねえ。即興というものは一番やさしいが、又一番難かしい。文章
が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような
文章が書ければ、文章は生きて来るんじゃないだろうか。批評家は、文章は、思想なり意見なりを伝
える手段に過ぎないという甘い考え方から容易に逃れられないのだ。批評だって芸術なのだ。そこに
美がなくてはならぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ。退屈で退屈でやり切れぬ。」
(「座談/コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」)

とたたみかける。

小説、つまりフィクションが少ないのがこのbooks+コトバノイエの本棚の大きな特徴で、そうなると
いきおい画集や写真集といったアート本やエッセイや評論といったノンフィクションが多くなるわけだ
けれど、ほんとうの意味で、それ自体が美に昇華しているように感じる文章はそれほど多くはない。

だからこそときたま出会う、この洲之内徹や小林秀雄や吉本隆明や白洲正子や植草甚一や澁澤龍彦
や色川武大や寺山修司(敬称略)の珠玉のような文章を心にしっかりと留め置きたいと思うんだ。

それにしても、いちどは「そこに美がなくてはならぬ」なんて言い切ってみたいもんだ。
 

*
 

■ 仮往生伝試文    古井由吉   河出書房新社   19981124  再版

この人のエッセイを読むためだけにJRAの「優駿」を買っていた時期がある。

短編のような長編のような、随筆のような小説のような、そして現世のような来世のような、なにしろ
第一話にして平安時代の僧侶の往生伝とメジロラモーヌが同じ地平で語られるんだから、この本の
世界は、小説という形式でしかあり得ない壮大で、しかもメタフィクショナルな宇宙だ。

試文と称してはいるが、作者はイメージ上の混沌や、生と死の往還の中から何か新しいものが生ま
れることを確信しているに違いない。

読まなくてはわからない、が、読まなくてもわかることもある。

この本は、濃いぞ。
 

■ Yanagi Design   柳工業デザイン研究会編  平凡社  20080825 初版第1刷

柳宗理デザイン研究室のすべて。

良くも悪くも財団法人という組織形態でデザインのオフィスをやっているところにすべてが表れ
ているような気がします。

アノニマス(無名性)を標榜する柳さんのプロダクトデザインはとっても素晴らしいものだけれど、
独特の臭みがあるのも否めない。

それは民藝の残り香だったり、オレンジハウス的なプラグマティズムだったり。

本文で引用した小林秀雄の伝でいえば、やはりそこには美がなくてはならないんだ。
「美」に対するモノサシはひとりひとり違っていてあたりまえだから、デザイナーが「美」と感じる
ところに波長が合わなければ、「退屈で退屈でやり切れぬ。」ということになってしまうわけで。

ギリギリです。


■  悲劇の解読   吉本隆明    筑摩書房   19791210 初版第1刷

のっけからこうだ。

「批評の最大の悩み、公言するのが恥ずかしいためひそかに握りしめられている悩みは、作品となる
べきことを禁じられていることだ。そこで批評はいつも身の振り方についておもいめぐらしている。」

まな板にのせられたのは、太宰治・小林秀雄・横光利一・芥川龍之介・宮沢賢治。

最近マイブームの小林秀雄論が出ていたので興味があって読み始めたけれど、歯が立たない。

この時代の隆明さんは手ごわいなあ。


■ 三島由紀夫おぼえがき   澁澤龍彦   立風書房   19781204 初版


なんとなくふらふらっと買ってしまった澁澤龍彦さんの三島由紀夫論。
昭和36年から昭和58年までに執筆された三島由紀夫に関する文章の集成だ。

三島由起夫に関しての本は数えきれないほど出版されているけれど、澁澤さんと三島由紀夫の交友
は、なんとなく他の人とは違うような気がしないでもない(直感ですが)。

この本に載せられた二人の対談を読んでいると、三島由紀夫が3歳年下のこのディレッタントに一目
を置いていたことがよくわかるから、きっと美意識で重なる部分を感じていたんだろう。

いつもながら、この人の本は装丁、とくに紙と活字のコーディネーションが絶妙だ。


■ イームズハウス/チャールズ&レイ・イームズ    岸和郎   東京書籍  20080804第1刷

ミッドセンチュリー・デザインのアイコンとして、インテリアの分野ではスターといってもいい存在の
イームズ夫妻ですが、その建築が語られることはそれほど多くはなかったんじゃないでしょうか。

ケース・スタディハウスNo.8 ― イームズ自邸。

ダイハード・モダニスト、岸和郎さんが朝9時から夜8時までこの住宅で過ごすことによって得たこの
住宅の考察が、多数の新しい写真(by Phillippe Ruault)とともに掲載されています。

イームズハウスの「正面性」ー A-B-B グリッドの謎
斜めの視線 ー アルコーブから
外縁=エンベロープとしてのエレベーション

性格が垣間見えるような真面目な分析に好感。

「カリフォルニアの建築を解説する岸和郎」というのがなんとなくイイ感じなわけです。
 
 

 

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