2008年12月アーカイブ
久しぶりに新刊を買った、というより買わずにいられなかったと言ったほうがいいかもしれない。
■ 現な像 杉本博司 新潮社 20081220
前作「苔のむすまで」から3年ぶりのエッセイ集。
さらにamazonの巧みな計略に見事にはめられ、彼を特集したプチ写真集ともいえる写真誌も。
■ Photo GRAPHICA vol.13 /2008 winter MdN/インプレス
どちらも、金沢21世紀美術館での「歴史の歴史」展にタイミングを合わせてのもののようだ。
杉本博司は、日本人では数少ないインターナショナル・レベルのアーティストだ。
よく知られている写真だけでなく、古美術や建築にも造詣が深く(ニューヨークで10年も古美術商
をやっていたというから驚きだ)、その研ぎすまされた感性は、インスタレーション(漆喰塗りだけで
2年かかったというまるで美術館のような自邸!)や建築(直島の護王神社)にまで及んでいて、
写真家というよりは、現代美術の作家といったほうが正確だろう。
成熟した大人の art piece
彼の作品の最大の特徴は、コンセプチュアルということだろう。
たとえばデュシャンが、男性用の小便器をさかさまにして署名を施した「泉(1917)」という作品で
予言しているように、現代美術(モダニズム)が「見立て(メタフィジカルな制作という概念)」までを
包含していることは明らかで、彼のスタイルがことさらコンセプチュアルであることを強調することは
ないのかもしれないけれど、彼のメインフィールドである写真は、対象をどのように見るかという
「視点(camera eye)」そのものが表現のコアなんだから、コンセプチュアルであることはことのほか
重要な分野だと思う。
まして「ポストモダン時代を経験したポストモダン以前のモダニスト」を自認するこの人であれば、
コンセプトに忠実であるというモダニズムの基本概念が、「倫理」となって身体に宿っていても
不思議じゃない。
: Dioramas ジオラマ 1976
「虚像でも、一度写真に撮ってしまえば、実像になるのだ」
あのホールデン・コールフィールドが、妹フィービーと待ち合わせをした(「この博物館でいちばん
良かったのは、すべてのものがいつも同じところに置いてあったことだ」と彼はいっていた)ニュー
ヨークのアメリカ自然史博物館に展示してある古生物や古代人のジオラマを実像であるかのように
(片眼をとじて)撮影したシリーズ。
: Theaters 劇場 1978
「映画一本を写真で撮ったとせよ」
アメリカ各地の古い劇場やドライブインを訪れて、上映中のスクリーンを上映時間の長さだけ露光し、
そのまま印画紙に焼き付けた。
とうぜんスクリーンは時間そのものを露光し光り輝く、そして画面には劇場の姿が露に投影される。
: Seascapes 海景 1980
「原始人の見ていた風景を、現代人も同じように見ることは可能か」
「心理的タイムマシンに乗って世界中を旅をして撮った」という、まったく同じ構図のモノクロの海、
水平線が中央にある海の景色。 その海景の繰り返しが、眩暈と静寂を同時に呼び起こす。
: Architecture 建築 1997
「私は現代のはじまり(モダニズム)をその建築物から辿ってみることにした」
方法論は、無限の倍という焦点距離、物理的にあり得ない空間にピントが合ってしまうわけだから、
とうぜん被写体はボケボケに写る(「溶ける」と彼は表現している)。
優秀な建築は大ぼけ写真でも溶け残るのだという、本人曰く「建築耐久テストの旅」。
たしかにその写真には、夾雑物が取り除かれた建築の霊が映っているような感じさえする。
: In the Praise of Shadow 陰翳礼讃 1998
「蝋燭の一生を記録してみることにした」
闇の中の一本の和蠟燭が燃え尽きるまでを露光し、光の帯と影だけという写真の最小限のもの
だけを写し撮ったシリーズ、光は闇の投影にすぎない。
8 x 10 という写真の原形ともいえる大判カメラを駆使し、あるいは脳内のカメラをフルチャージして、
彼が捉えようとしてしているのは、いってみれば「時の移ろい」とでもいうべきものだろう。
幸せなことに、ぼくたちは彼が視た時間や光の残像を photograph として眺めることができる。
そしてこの新刊。
この本のあちこちに地雷が仕掛けられていることは、チラチラと眺めているだけでも感じとれる。
なかでも海面から30mのレベルの断崖に置かれるという、100m x 1レーンの水平線と一体化した
ガラスのプールは、液体に浸ることに快感を覚える人間の脳内のイメージ中枢をはげしく刺激する。
その細くて長いプールは、春分の日の日の出日の入りの方角に設定されていて、早朝泳ぐ者は
日の出ずる国を目指し、夕刻泳ぐ者は西方浄土を目指すというわけだ。
「古代の補陀落渡海のように身一つで異界を目指して渡る、そうした現代人が喪失してしまった
感性を呼び戻すための装置としてこのプールを想起したのだ。」
あくまでコンセプチュアルなのだ。
こういう毅然とした刀剣のような本の話で、この年の掉尾を飾れるのもなかなかイイもんだと思います。
年末年始はこの本で愉しめそう。
それにしても冬の金沢、蟹と温泉と杉本博司、行きてー。
*
年末の本買
どういうわけかここにきてけっこう真面目な本が集まってきました。
ついつい読みやすいモノから手をつけていってしまうので、こういうのはどこまで読めるか、ですね。
掘り出しは、濱谷浩さんの写真集と内田百閒、
濱谷浩さんの作品集は、瀧口修造から開高健までの昭和の文筆家(學藝諸家)88人の肖像を、
ストレートな眼差しで撮ったもの、これもまた、写真表現の一面でしょう。
内田百閒は、この人のちゃんとした本が欲しいとずっと思っていたんで、この装幀の良い本の初版が
入手できたのはラッキー、タイトルがシブい。
■ 絶対文藝時評宣言 蓮實重彦 河出書房新社 19940215 初版
■ 映画の構造分析 内田樹 晶文社 20030615 初版
■ マルセル・デュシャン「遺作論」以後 東野芳明 美術出版社 19900401 初版
■ 世阿弥 瀧川駿 圭文館 19620320 初版
■ 17歳のための世界と日本の見方 松岡正剛 春秋社 20070225 第7刷
■ 滞欧日記 澁澤龍彦 河出書房新社 19930205 初版
■ ヨーロッパの不思議な町 巌谷國士 筑摩書房 19900830 初版第1刷
■ 24365沖縄 24365沖縄研究会 集英社インターナショナル 20060731 初版
■ 學藝諸家 濱谷浩 岩波書店 19830325 第1刷
■ THE EARTH BOOK スイッチパブリシング 20081210 第1刷
■ 日沒閉門 内田百閒 新潮社 19710415 初版
■ 20世紀はどのようにデザインされたか 柏木博 晶文社 20020210 初版
*
ウェブサイト SPOT LIGHT ページの企画「コトバノイエの30冊」の第2弾をアップしました。
建築家矢部さんに替わって登場いただいたのは、カジュアルウェアのプレミアムブランド
「 bru na boinne 」のデザイナー辻マサヒロさんです。
気鋭のデザイナー渾身のセレクションをぜひご覧ください。
May peaceful New Year 2009 on you all .
なんとも不思議なPOP感を持ったアルバムに出合った、それも2タイトル。
■ Everything That Happens Will Happen Today David Byrne & Brian Eno 2008/8/18
■ Circus Money Walter Becker 2008/6/10
Amazonの森の中でたまたま出合ったCDだけれど、どちらもなんともいえない今日感に溢れている。
この2つの作品に流れている共通感をどのように表現したものか、ずっと考えている。
音楽のテイストはぜんぜん違うものなんだけれど。
かたや27年ぶりのコラボレーション、もう一方は14年ぶりのソロアルバムということで、それほど
目新しさはないけれど、どちらもロックのプロパーでは、一筋縄ではいかないミュージシャンとして
知られている。
どちらのアルバムも洗練された上質のプロダクションで、クオリティは高い。
Walter Becker は、もうひとりの Steely Dan
かれこれ30年以上つきあってて思うけれど、Steely Dan のふたりはとんでもない偏屈野郎だ。
でもその偏屈が、きわめて都会的で凝りに凝った音として表現されるんだから、偏屈も悪くない。
じっさい1972年の「Can't Buy A Thrill 」に始まる彼らのキャリアに駄作はないし、そもそも
偏屈じゃない健全なアーティストなんて、魅力があるとも思えない。
このアルバム「Circus Money」は、その Steely Dan の目立たないほう(ギタリスト)が
今年リリースした2作目のソロアルバム、ファーストアルバム「11 Tracks Of Whack」が
1994年の発表だから、このアルバムは14年ぶりということになる。
その間ハワイで薬物中毒のリハビリ( その合間にフェイゲンを含む何人かのアーティストの
プロデュース、そして Steely Dan のツアー )をしていたというから、順調に(凝り性の人
らしくそれぞれたっぷり時間をかけてだけれど)作品を発表しつづけるもう片方の Steely Dan、
Donald Fagen と比べると、いかにも不器用だ。
アルバムのプロデュースは、Larry Klein (ジョニ・ミッチェルの ex-husbandだ)
単純計算でいくと、Steely Dan - Donald fagen = Walter Becker となるわけで、バックが
「Everything must go」やフェイゲンの最新作と同じミュージシャンだから、まあ当たらずとも
遠からずだけれど、じっくり聴きこむと、かなり捻ったこの人独特の音の景色が視えてくる。
レゲエビートを基調にしたタイトなサウンドに重なる、なんともユルいベッカーの声。
なかでも「 Looking Upside Down 」という曲の、溶けていくような浮遊感のあるサウンドに
ノックアウトされて、一日に何回も繰り返し繰り返し聴いている。
不器用でハイセンスな NEW YORK のミュージシャンが造ったこの一曲を聴くだけでも、
このアルバムの価値があると断言する。
食べものでいうとブルーチーズとか豆腐餻とかそっち系、よく醗酵していてクセになる味なんだ。
Byrne & Eno の作品は27年ぶり。
前作の「 My Life In The Bush Of Ghosts(1981)」は衝撃的だった。
エレクトリックなアフロ/ファンクビートに重なる意味不明のサンプリングとバーンの神経症的
なヴォーカル、そして同時期に発売されたトーキング・ヘッズの「Remain in Light」とのダブル
インパクトで、エスノロックなるジャンルが生まれ、新しい時代のダンス・ミュージックを予言した。
現代のヒップホップやオルタナティヴ・ロックといわれる音楽で、このふたつのアルバムの影響
を受けていないものはないんじゃないだろうか。
そして21世紀のこのアルバム。
もともとは、 re-master で再発売される「 My Life In The Bush Of Ghosts 」の 打ち合わせの
ためにロンドンに行ったバーンが、イーノのスタジオで彼がが造りためていた曲 "a lot of music
which I never formed into songs ( by Eno )" を聴いたことから始まったプロジェクトで(イーノ
にいわせると "dinner conversation" からなんだ" ということだけれど、実際には最近どんなこと
やってんの、じゃオレいっかい歌詞つけて唄ってみようか、てな感じだったんだろうきっと)、イーノ
がサウンドを、バーンが歌詞とヴォーカルという分業スタイルによって完成させたものだという。
全体の音のデザインは、イーノが2006年にプロデュースしたポール・サイモンの「surprise」や、
コールドプレイの最新盤「Viva La vida or Death And All His Friends」に近い。
このへんの感じ(ホワットした電子音のレイヤーによる浮遊感)が、おそらく最近のイーノのポップ
ソング( ambient ではなく)へのアプローチなんだろう。
気になって「 My Life In The Bush Of Ghosts 」も聞き直してみたけれど、ベースやドラムじゃない
電子音の積み重ねでリズムの「うねり」を造りだすという構造自体が変わっているわけではない。
ただこのアルバムではその音の粒のひとつひとつに滋味のようなものが加わって、「球体の奏でる
音楽(by Kenji Ozawa)」とでもいえるような奥行きのあるプロダクションなっているのが特徴的だ。
ライナーノーツではふたりとも口をそろえてこの音楽を「 electronic gospel feeling 」と表現している。
イーノがいうように、このアルバムのサウンドが近年彼が魅かれているゴスペルという宗教音楽に
インスパイアされた音であることは間違いないし、その曲を聴いたバーンがそれを敏感に感じとって
いることも確かだけれど、じゃあこれがゴスペルかといわれると、じつはあまりそんな感じはしない。
けっきょくゴスペルといっても、その実質的な形態ではなく、「 Bush Of Ghosts」でアフリカンビートを
見立てたように、今日的なポップソングのベースとしてゴスペルのスタイルやニュアンスを見立てたと
いうことじゃないんだろうか。
バーンは暗喩の多い歌詞を造るひとだから、ブックレットの歌詞カードを読んでいても、イマイチ全体の
感じがよく掴みきれないんだけれど、この「ゴスペル」がキーワードになって、なんとなく宗教的な気配
("Biblical allusions" と彼はいっている)が漂っているのはよくわかる。
アルバム全体の印象は、ひとことでいうと「 Talking Heads in 21st century 」っていう感じ。
Talking Heads はバーンのバンドだったんだって、あらためて思う。
デヴィッド・バーンは、じつはけっこう「家」好きだ。
78年発売のトーキングヘッズの2枚目のアルバム( produced by Brian Eno also)も、「more songs
about building and food 」と名づけられているし、「Remain In Light 」には「 houses in motion」という
曲が、その次の「 Speaking in Tongues 」にもシングルカットされた「burnin' down the house 」なんて
いうファンキーな曲が収められている。
このアルバムにも一曲目に「 home 」という曲が入っていて、ジャケットや同封のブックレットのデザイン
を見ると、どうやらアルバムのコンセプトが「家」にまつわるもののようだ。
そしてなぜか1月23日のバーンのコンサートのチケットが手元にあったりするんだ。
このふたつのアルバム、センスはまったく違うけれど、どちらの作品にも漂うあてのない浮遊感は、
いかにも2008年的といえなくもない。
どちらかを選べといわれたら、Becker かな。
微かにだが、blues の匂いがするから。
そういえばどちらのタイトルも、難しい単語じゃないのに意味がよくわからない。
「Everything That Happens Will Happen Today 」の everything ってなんのことなんだ?
「Circus Money」ってどんなお金なんだ?
*
■ 文字の美・文字の力 杉浦康平編 誠文堂新光社 20081204 初版
新古本。
中島英樹「文字とデザイン TYPO-GRAPHICS」の流れでこんな本が見つかった、同じ出版社だ。
前にも書いたことがあるけれど杉浦康平さんの本は本棚でのインパクトが強くて、つい手に取って
しまうし、手に取ると必ず欲しくなってしまう、ちょっと高いんだけど。
この本は、アジアの図像のトップランナーが、読むものではなく書くもの「身体を動かして生み出す
もの」としての「漢字」に挑んだもので、これはもうタイポグラフィという枠を飛びこえたひとつのアート
と考えたほうがいいでしょう。
書でも活字でもない「文字(漢字)」の見立てはこの人でしかでき得ないスゴ技だと思います。
もちろん造本は最高、写真も文字も限りなく美しい。
「手足をのばし、声をのせて踊りだす文字。呪力あふれ,霊気をはなつ文字...人々が気づかぬ場所に
ひっそりと現れ,棲みつく文字は,思いがけないふるまいで,眼に見えない力をたぐりよせ,日々の暮らし
を活気づける。文字たちの予想を越えた変幻の妙,魅惑にみちた姿・形に眼をこらす... 」
■ マンダラ 出現と消滅 西チベット仏教壁画の宇宙 西武美術館 19800719
流れはさらに続く。
1980年に西武美術館で開催された「マンダラ=出現と消滅」展の図録、もちろん杉浦デザイン。
密教のことをよくわかっているわけではないけれど、図像的にも哲学的にも曼荼羅には魅かれる。
どうも自分の魂の根源が、チベットの奈辺にあるような気がしてしかたないのだ。
日々の暮らしで、神や仏とそれほど密接な関係をもっているわけではないけれど、仏教の美術や、
山や石にひそんでいるという八百万の神の存在には感じるところが多い。
この本に収められた様々な仏画や曼荼羅を眺めていると、空や海や大地といった自然から感じとる
漠然とした人の想いのようなものが、執念となってカタチを成したものではないかと思えてくる。
日々こんな画を壁にはって祈っていれば、「悟り」がひらけそうな気がするから不思議なもんだ。
とにかくわけのわからぬものはありがたい。
■ 魂のいちばんおいしいところ 谷川俊太郎 サンリオ 19960310 9刷
タイトル買い。
こういう言葉のデザインが、詩人が詩人たる所以なんだろう
ジャケットのホックニーの絵(small interior, Los Angeles)もよく似合ってるし、大きさもいい。
珍しくイラストレーションの上に文字をのせている平野甲賀さんの装幀。
詩には良いも悪いもありません、ただ感じるかどうかだけ。
魂のいちばんおいしいところ
神様が大地と水と太陽をくれた
大地と水と太陽がりんごの木をくれた
りんごの木が真っ赤なりんごの実をくれた
そのりんごをあなたが私にくれた
やわらかいふたつのてのひらに包んで
まるで世界の初まりのような
朝の光といっしょに
何ひとつ言葉はなくとも
あなたは私に今日をくれた
失われることのない時をくれた
りんごを実らせた人々のほほえみと歌をくれた
もしかすると悲しみも
私たちの上にひろがる青空にひそむ
あのあてどもないものに逆らって
そうしてあなたは自分でも気づかずに
あなたの魂のいちばんおいしいところを
私にくれた
瑞々しさは、言葉の宇宙の宝もののひとつでしょう。
*
a tiny trivia from WIKI
「Windows 95」の起動音「The Microsoft Sound」はイーノの作品だそうだ。
マイクロソフトからの依頼は「人を鼓舞し、世界中の人に愛され、明るく斬新で、感情を揺さぶられ、
情熱をかきたてられるような曲。ただし、長さは3.25秒」というものだったらしい。
高村薫の住宅についてのコラム「家のつぶやき」は、予想していた以上に面白かった。
孤高ともいえる女流作家に、住宅のことを書かせた日本経済新聞の編集子のファインプレイだろう。
1200字26話のあちこちに慧眼が光る。
それは最初のコラム「景観」のこんな文章を読むだけではっきりとわかる。
「個々の建物と周辺の建物と自然を含めた〈景観〉という発想は、この国には最初からなかった
に違いない。(略)窓の外に見える風景が、個々人の暮らしの中にある程度のウエートを占める
ようにならなければ、住宅の成熟はなく、街としての〈景観〉が生まれることもない。」
また、かつて暮らした大阪千里にある集合住宅(団地)を論じて、欧米に比べての40年という
その寿命の短さを指摘し、
「メンテナンスの不備ではあるまい。たぶん建造物として、初めから住民が愛着を持つだけの
価値のないものだったことが、老朽化を早めているのだ。」
と見破っているのも、そうとうシャープな批評眼だ。
さすがに2クールにわたる連載の後半でやや息切れの気配があるのが残念だが、なにごとに対しても
真摯にとりくむ彼女の硬派ぶりにはあらためて感心させられるし、ストーリーのあるなしにかかわらず、
ブレることのないしっかりとした視点が、安心して読める文章の基点だということがよくわかる。
ベランダの当惑/年をとらない家/家屋の陰影/閑静な住宅地/マイホーム幻想/エゴを超えて
関西の人だけに、彼女が語るその風景になんとなく親しみを感じます。
/
某日、デザイナーのTさんに本を選んでいただいた。
矢部さんに続く「コトバノイエの30冊」第2弾のためのセレクションをお願いしたのだ。
天気のいい日曜の午後、遅めのランチをとりながらのセッションだったので、はじめはわりと
のんびりした気分だったんだけれど、挑むように本棚に向かうTさんの姿を眺めているうちに、
どんどんテンションがあがってきた。
少しずつ積み上がっていく予想もつかないタイトルを見ているのはとてもスリリングだったし、
選んだ本にまつわるあれやこれやをおうかがいした選後のインタビューもなかなか興味深い
ものだった。
なんであれ本を選ぶというのは自分の何かを晒すことでもあるし、あらかじめひとつのフィルター
をかけられた本棚からのセレクション(しかも冊数まで限定されて)なんてけっこうやっかいな
ことじゃなかったかと(無責任にも)思うけれど、選ばれた本たちのちょっと嬉しそうな佇まいや、
ひとつひとつのメッセージを整理していくうちに、全体の景色がなんとなく浮かんできた。
服のデザインをする人との本を介してのセッションができるなんて思ってもいなかったことだから、
これから作成するウェブページが、快くこちらの申し出を受け真摯に取り組んでいただいたTさん
に喜んでいただけるような、そして見ていただいている方に今感じているこのワクワクした雰囲気
がうまく伝わるようなものになればいいなと、あらためて期する次第。
Be looking forward to it !
でもホント、予想以上に楽しいセッションでした。
/
そしてまた某日、
ディランに続いてマーティン・スコセッシが撮ったストーンズの「 Shine a light 」を観た。
すでにDVDで発売されている映画を、封切りのシネコンで観るというのもちょっと微妙だけれど、
やはり大きなスクリーンで観るのは気持ちいいし、なんといっても音の迫力がちがう。
トレイラーを見ているとタダのコンサート記録のようにも思えたこの作品が、しっかりと練られた
上質の「映画」だったのはちょっと予想外だった。
さすがスコセッシ(ミックやキースと同世代の戦中派だ)、ただでは転ばない。
コンサートは素晴らしいものだった。
キースのテレキャスターの一撃からはじまるオープニングの Jumpin' Jack Flash には、
鳥肌ではなく、一瞬涙がでそうになった。
スコセッシは movie をわかってる。
ミックは camera をわかってる。
キースは rock をわかってる。
ロニーは stones をわかってる。
そしてチャーリーは stones そのものだ。
このスペシャルなコンサートは、わかってる大人たちの移動祝祭日だったようだ。
"のどが渇いたらシャンパンを飲もうぜ、トビたかったら reefer(マリファナ)をキメればいいさ"
なんていう曲( Champagne & Reefer by Muddy Waters) もプレイしていたが彼ら自身は
no dope(シラフ)のステージだった。
ストーンズといえばいつも dope のことが話題になったもんだけれど、今はそういうものからは
完全に解放されたようだ、キースのクリーンな眼を見ればそれがよくわかる。
生き残ったロッカーたち。
彼らがバンドを始めた頃、新しくて反抗的な存在だったロックが、すでに古い音楽スタイル
になっているということは、たぶん彼らもよくわかっている、でもこんな風に人の心を震わせる
ことができるんなら、スタイルなんてなんの意味もないよね。
けっきょくは、Blues の力かなと思う。
最高の一曲は、ミックがとても照れくさそうに「この曲を作った時、恥ずかしくて他人に歌って
もらったんだ(当時の恋人マリアンヌ・フェイスフルに贈った曲でした)」と呟いてはじまる
so sweet な「 As Tears Go By」、キースのメロウで、そして hip なアコースティックの12弦は
シブすぎて、今にもブライアンが降りてきそうだった。
ちなみに2006年の秋にブロードウェイの Beacon Theater という由緒ある劇場で開かれたこの
コンサートは、クリントン元大統領が自らの60才の誕生日を祝して主催したプライベートな(!)
ものだったそうで、もちろんご本人もヒラリー次期米国国務長官も、そして彼女の母親も映画に
登場、そしてこのコンサートのオープニングのMCは、なんとクリントン自身だったのだった。
それにしても、ストーンズには NEW TORK CITY がよく似合う。
*
ここ最近の本買の何冊かを
■ 人間失格 太宰治 筑摩書房 19480725 初版
ダザイの初版、しかも絶筆の「人間失格」と「グッドバイ」とは、ちょっとエキサイティング。
この小説「人間失格」はこの本が発行された年の「展望」の8月号で完結、本人はその6月に
逝ったんだから、その初出誌を見ることはなかったわけだけれど、文学誌の8月号の掲載
作品とその死によって中断された新聞小説が、臼井吉見の追悼あとがきを付して7月25日に
上梓されているそのスピード感は半端じゃない。その死に方がセンセーショナルなものだった
だけに、この本は話題作となり、当時としては大ベストセラーの20万部(おそらく紙を集める
のにそうとう苦労したんじゃないだろうか)を売り切ったそうだ。
今も昔もマスメディアの売れるものへの嗅覚はたくましい。
凡百の例にもれず、若いときに太宰作品のひととおりの洗礼を浴びているけれど、その含羞的
というか露悪的なデカダンよりも、ひとつひとつのフレーズの鮮やかさが心に残っていて、その
言語感覚は、今の世ならコピーライターとしても一家をなしていたのではないかという気がする。
「恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れました
ので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、
上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然
気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにする
ためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思って
いたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜(あかぬ)けのした
遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたの
ですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを
発見して、にわかに興が覚めました。」
ちなみに、英訳でのこの作品タイトルは、「No Longer Human(by Donald Keene)」
なるほど。
■文字とデザイン TYPO-GRAPHICS 中島英樹 誠文堂新光社 20080501 初版
確かにオリジナルフォント「 Nakajima Thin 」は美しい。
そして文字というものにこれほどまで執拗にこだわるデザイナーがいるのはとても心強い。
「日常にある風景写真であろうと、それが文字を感じるのであればタイポグラフィと呼んでいい。
文字の気配がすればそれはもうタイポグラフィである。」
これはもうメタフィジカルな文字表現至上主義といってもいいんじゃないだろうか。
「タイポグラフィ」というものへのモノサシがないので、作品の評価なんてとてもできないけれど、
インタビューで彼が言っている
「大事なのは『気持いいこと』を実現していくことなわけだから、例えばベジタリアンでもまずい食事を
我慢しているならエコじゃないんじゃないか。某大手自動車メーカーがエコを前面に出していますが、
本当の意味でエコを実践しているのは、フェラーリなんじゃないか、とか。なぜなら、フェラーリは捨て
られない車を作っているわけで、ゴミにならない。大量生産・大量消費のエコカーが本当にエコロジー
といえるのかって。」
という考えには大同意。
とにかくデザイナーの要諦は、まずゴミを造らないということでしょう。
ゴミのようなデザインのなんと多いことか。
坂本龍一のCDジャケット、ISSEY MIYAKEの広告、shu uemuraのパッケージなどはこの人の作品。
ジャケットデザインが原点だと彼はいっている。
けっこうROCKな人かも知れません。
■ やきもの談義 白洲正子/加藤唐九郎 駸々堂 19761020 初版
言いたい放題だよ、
"窯ぐれ" 唐九郎(79才)と"韋駄天お正"こと白洲正子(66才)の対談。
「日本人の好み」「信長の魅力」「中国文化の影響」「芸術と恋愛」など、やきものだけでなく古今
東西の美をめぐるダイアローグで、さすがにお二人とも確固たる美意識をもっていらっしゃったことは
よくわかりますが、造る人と見立てる人の違いが最後のところではっきりと浮かび上がってくるのが
この対談のもっとも興味深いところでしょう。
唐九郎さんが、青山二郎のことを仁清のやきものみたいだと喝破しているのは痛快。
でもまあ年寄りは無敵だな。
こういうのを読むと早く年寄り(それも嫌われる年寄り)になりたくなってしまうんだ。
■ 人間人形時代 稲垣足穂 松岡正剛/杉浦康平 工作舎 19750101 初版
足穂の作品集というよりは、松岡/杉浦作品ととらえるべきか。
稲垣足穂という稀有な文学素材、1975年発行の本に1975円という値段、杉浦康平による造本、
本の真ん中に穿たれたTarupholeという7mmの孔(マルコヴィッチの穴みたいだ)、執筆年もテーマ
も違う文章による3部構成。
スーパーエディターを自称するSeigow氏の、おそらく快心の一作ではないかと思いますが、70年代
という時代背景はあるにせよ、too much intention の感は否めません。
あからさまな作為は編集の敵ではないのか。
エディターのコアは、「やりすぎない」ことではないのか。
This production design is not hip.
もちろん足穂翁の作品は文句なし、
とくに幻といわれていた初期作品の「宇宙論入門」が読めるのは素晴らしいのですが。
■ 横尾忠則日記 一米七〇糎のブルース 横尾忠則 新書館 19691215 初版
また買ってしまった横尾本、でもコイツはちょっとスゴイぞ。
「横尾忠則遺作集」という粟津潔編集の作品集を除けば、これが横尾さんの処女文集なのだ。
寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」なんかと共通するこの時期のポップな横尾デザイン。
1962/10/25から1969/11/05までの日記/エッセイ群は、60年代のクロニクルといってもいいでしょう。
横尾さんのアートの原点がここにあります(じつは今もあんまり変わってないように思うけど)。
「今、私がいちばん欲しいものは二糎米である。
あと二糎米で私の身長は一米七〇糎になる。
もし私の身長が一米七〇糎あったなら、私はどんなに大きな自信をもつことができたか知れない。
この本に集められた過去数年のエッセイは、すべて私の願望を表したものばかりである。」
期せずして1969年、初版・検印付きです。
*
