2009年1月アーカイブ

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David Byrne のあの痙攣ダンスを観たのは29年ぶりだ。
ずっとやってるほうもエライけど、忘れずに駆けつけるほうも相当だと思う。

■  David Byrne      "Songs of David Byrne and Brian Eno"   Nanba Hatch    20090123

この前彼をステージで見たのは Hollywood の Pantages という由緒ある古い劇場、
Talking Heads の「Remain in Light」のプロモーションツアーのときだった。

のちに「STOP MAKING SENSE( by Jonathan Demme 1984 )」として劇場公開された映画と
ほぼ同じスタイルでデザインされた(というかあの映画はこのときのステージが原形だろう)その
コンサートでの、Talking Heads が弾きだす強力なファンク・ビートと David Byrne の痙攣的な
パフォーマンスの記憶は、今も鮮烈に残っている。
その時このTalking Heads というNew Yorkのアートスクールバンドが放っていたオーラは、時代
の先端を走るアーティストだけに与えられる一瞬の輝きではなかったかと、ふりかえれば、思う。
(そしてそれは往々にしてそうなんだけれど、それがかれらのキャリアのピークでもあった。)

このコンサートも凄かったけれど、映画「STOP MAKING SENSE」にはもっとシビれた。
ロックコンサートが、こんなにアーティスティックに演出できるのか、こんなにクールに撮れるのか。
Byrne がプロデュースしたそのパフォーマンスと映像は、四半世紀を経た今でも充分に刺激的だ。

ROCK + FUNK + AFRO + NOH(能)の フュージョン。

Talking Heads の Pantages Theater でのパフォーマンスと、この「STOP MAKING SENSE」は、
ROCKのひとつの祝祭として語られるべきものだと思う。

で、2009年のオーサカでのコンサート。

David Byrne と3人のダンサーと7ピースのバンドは、全員が真っ白いコスチュームで登場した。

「2ヶ月ほど前、英国人(と彼は強調した)の Brian Eno と一緒にアルバムをつくったんだけど、
今夜はその新しいアルバムの曲と、みんなが良く知っているHeadsのいくつかの曲を選んだよ、
Chef's Choice だから。」

と、この人らしい律儀なMCから始まったコンサートのオープニングは、新しいアルバムの中でも
Byrne らしさが際立っていた「Strange Overtones」、続いて「I Zimbra」、Talking Heads の3枚目
のアルバム「fear of music」からの、アフロファンク・チューンだ。

観客もあまり多くなかったし(500人くらいだろうか)、日本での最初のパフォーマンスだったせいか、
やや緊張感を漂わせた幕開けだったけれど、曲が進むごとに少しずつ暖まってきたオーディエンス
の気配を感じて、彼自身もだんだんとヒートアップしていく。

声がとてものびやかだ。

才気煥発を絵に描いたようにシャープな印象だった Talking Heads のころと比べると、いい感じに
角がとれてとてもリラックスしている、憑かれていたものからすっかり解放されたような雰囲気。

表情が柔らかい。

このバンドで、去年の夏からはじめて今年4月まで8ヶ月のワールドツアーをやっているというから、
単なるプロモーションではないだろうし、ステージでのいかにも楽しそうな彼の表情を見てると、
ミュージシャンとしてのライブ・パフォーマンスにまた目覚めたんじゃないかと思ったりする。

音はうねりのあるイン・ツーのビート、ベースのシンコペーションで自然に躯が揺れてくる。

Blues は感じないのに Funk、なんかちょっと不思議な感覚、腰は動くけど歩くようなタテノリだ。

ブルーアイドソウルと呼ばれる音楽があったけど、その伝でいえば、この音楽はブルーアイドファンク
といってもいいものだろう。 ぜんぜん今風じゃないけれど Byrne と Eno が翻訳したある種普遍性
のあるダンスミュージックじゃないかと思う。

「electric gospel feeling」と彼が語っていた新しいアルバムの曲と、Talking Heads のワンコードで
押していくファンク・チューンが違和感なく混じりあって、心地良いグルーブがホールを包んでいる。
観客は少ないけれどそのぶん一体感は強い。

コンパクトなホールで、PAが通っていない生音もよく聞こえるし、Byrne の唾がとんできそうだ。

2時間20曲、そして余韻。

3回目のアンコールで、アルバムのタイトルチューン「Everything That Happens Will Happen Today 」
をゆったりと、Electric Gospel 風に歌った Byrne は、優しい微笑を浮かべてバックステージに消えた。

いろんなことがあっても、自分自身がちっとも変わっていないように、ステージにいた57才のバーンも、
Pantages にいた28才のバーンと結局はそんなに変わっていないんだと、夜風の帰り道で気がついて
少し嬉しくなった。 

Set List of  "Songs of David Byrne And Brian Eno"     2009/01/23   at OSAKA

01   STRANGE OVERTONES
02   I ZIMBRA
03   ONE FINE DAY
04   HELP ME SOMEBODY
05   HOUSES IN MOTION
06   MY BIG NURSE
07   MY BIG HANDS (FALL THROUGH THE CRACKS)
08   HEAVEN
09   NEVER THOUGHT
10   POOR BOY
11   CROSSEYED & PAINLESS
12   LIFE IS LONG
13   ONCE IN A LIFETIME
14   LIFE DURING WARTIME
15   I FEEL MY STUFF
(encore)
16   TAKE ME TO THE RIVER
17   THE GREAT CURVE
(encore)
18   AIR
19   BURNING DOWN THE HOUSE
(encore)
20   EVERYTHING THAT HAPPENS WILL HAPPEN TODAY

調べてみたら Byrne ってスコットランド生まれ、生粋の Scottish だった、頑固なはずだよ。

 

*

 

前に書いたかもしれないけれど、なんだかとてもいい感じのバランスで本が買える日があって、
そんなときはとても気分がいい。

いいバランスというのは、その日買う本のジャンルや体裁や値段の比重がどこにも偏らないで、
全体を眺めたときになんとなく破調なく収まっている状況のことだ。

ほとんど新刊といってもいい日本の小説、ちょっと珍しい翻訳ノンフィクション、インテリアの図版
(洋書)、デザインのいい料理本、比較的新しいミステリーの文庫、80年代の太陽、最近のPEN。

崩しようもなくまとまっていると思うんだけど、ひょっとしてこれってただの自己満足?


■ Mapplethorpe : The Complete Flowers    teNeues    2006

MoMA store のバーゲンで入手。
オレンジのきれいな函に入っていて、包みを開けたときにはおもわず声が出た。

400 x 294 x 58mm  256P の大型本、これまでに発表されたメイプルソープの「FLOWERS」
シリーズがすべて(350点)掲載されていて、印刷も文句なし。
「FLOWERS」決定版といってもいい一冊じゃないかと思う、ブックデザインも素晴らしいし。

もう一冊の写真集のコメントにも書いたように、構成美こそがメイプルソープの写真の真髄で、
それは彼のライフワークのひとつだったこの花の写真にもっともよく表現されている。

「写真をファイン・アートに高めた作家として知られるロバート・メイプルソープ(1946-1989)。 
"FLOWERS (花)"はポートレートなどとともに彼のライフワークのシリーズです。初期はモノクロ
作品が中心でしたが、80年代から死の直前まではカラーでの制作にも取り組んでいます。
1988年には、ロバート・ミラー・ギャラリーの"New Color Work"展で発表されたダイトランスファー
の"FLOWERS"作品が大きく賞賛さています。 シンプルで完璧な構図と、美しい姿の裏に秘め
られた官能的セクシャリティーを暗示したイメージは最も人気が高いシリーズです。」

これポスターの広告文なんですが、なかなかうまくまとまっています。

こんな風にコメントできたらいいな。


■ イラストルポ 世界の街     小林泰彦    朝日ソノラマ   19701105 初版

この本と、「若者の街」が、2004年に発刊された「イラスト・ルポの時代」の元本。

読み込まれてジャケットなんてヨレヨレだけど、この本には価値がある。

1968年のハイトアシュベリーやヴィレッジやキングスロードやにどんな店が並んでて、その街を
ピッピーたちがどんなかっこうで闊歩してたかなんて、この本でしかわからないし、ややこしい
文章じゃないこのスタイルがいちばんわかりやすいから。

このイラスト・ルポは、「POPEYE」、「TARZAN」、「GULLIVER」、「BRUTUS」の名編集長だった
石川次郎さんが20代で「平凡パンチ」の編集者だったころ、小林信彦さんの弟の泰彦さんと
編みだしたスタイルで、この本はその連載の単行本化第一号、泰彦さんの初めての本でもある。

「あのころ世界はこんなふうだったんだ。
世界は発見に満ちていた。
ヘイト・アシュベリーはヒッピーに占拠されていた。
強いインド香とサイクデリック・サウンド。
ニューヨークのジャズ・クラブをはしごする。
アイビー・リーガーを探せ!
ロンドンのストリート・ファッション(かわいいお化けたち!)。
サンジェルマン・デ・プレの土曜日の夜。
高田賢三の紹介で三宅一生に会う(ふたりとも無名だった)。
そして、みんなベルボトムをはいていた。」

「イラスト・ルポの時代」のコピーだけれど、このなんともいえない高揚感がシクスティーズなんだ。 


■ ケルアック jack's book    ギフォード/リー    毎日新聞社   19980130初版

「路上(On The Road)」は名作だ。
読まなくてももっているだけで HIP な気分にさせてくれる、タイトルもいいし。

ジャック・ケルアック(1922-1969)はビート・ジェネレーションというコトバをつくった人だ。

ただ「ジェネレーション」といっても、それはたぶん実際にはギンズバーグ、バロウズ、そしてこの
作品のモデルであるニール・キャサディといった友人たちとの楽屋話のようなものだったはずで、
それを堂々と「ジェネレーション」と名乗ってしまうところが、アメリカの若者の楽天的というか
C調なところだ(とっても素敵だけど)。

そして世界中がこのケレンにまんまとノッてしまったわけだ。

この本はそのケルアックの評伝、サブタイトルが、「an oral biograpy of Jack Kerouac」だから、
直訳すると「証言で構成する歴史」、証言するのはこの本の初版が出版されたころ(1978)には
生存していたバロウズ、ギンズバーグ、スナイダーといった同世代の仲間たちだ。
そして「外国映画の吹き替えのように」証言者ごとに翻訳者を振りわけたのがこの新装版の趣向。

「ここに集まったのは。生前はいろいろ理由があって本人にほんとうのことが言えなかった人たち
が死者にあてた手紙である。」

放浪、ジャズ、詩、精神世界が彼らビートニクといわれる人たちの価値観のコアで、ジャズをROCK
に置き換えればそのままヒッピーになる。

ビートニクが、ヒッピーに伝えたのは、とにかく既成の概念にまず NO ! と叫ぼうという、「そもそも」
的なライフスタイルだろう。今時代のメインテーマになろうとしているサスティナビリティ(持続可能性)
やオーガニック(有機農業)やエコロジー(生態学)なんていう地球環境にまつわる様々なことは、
すべてここからはじまったんだ。

でも「アンダーグラウンドのセレブリティ」というのは、やはりちょっと自家撞着なんじゃないかと思う。 


■ 悼む人    天童荒太    文藝春秋    20081130 第1刷  

こういう本はすぐに二束三文になってしまうのが(別に本のせいではないんですが)悔しいので、
単行本で買うことはめったにないんだけれど、本としての佇まいがいい雰囲気だったので、つい。

「永遠の仔」もそうだったけれど、ジャケットに舟越柱さんの彫刻をつかったのは、編集者あるいは
装幀室(あるいは著者本人)の慧眼でしょう。

7年をかけたという書き下ろしの大作、時間をかければいいものができるとは限らないけれど、
いいものは時間をかけないとできないというのもまた真実で。

もちろんまだ読んでいませんが、「全国の人が亡くなった場所を訪れて、悼むという行為を続ける
ために放浪している青年」というのは、好き嫌いは別にして、いかにもこの人らしいストイックな
モチーフだなあと思います。

「On The Road」を現代日本的に翻訳すれば、こんな風になるんでしょうか。
明るくてオープンだったビートニクやヒッピーと比べると、いかにも内省的ではあります。

直木賞作品だったことに、帰ってから気がついた。

 

*

 

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黒澤明は、やっぱりイイなあ。

■ 八月の狂詩曲     黒澤明    1991

前に見たときは、反核のメッセージばかりが残ってあまりいい印象はもってなかったんだけれど、
あらためて見直してみると、この映画が家族を描いた物語だったことに気がついた。

おばあちゃんと原爆で亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんの12人の兄弟姉妹、ハワイに移民
したおばあちゃんの弟とその子供、おばあちゃんの4人の孫とその親(子供)たち、映画に出てくる
のはこの家族だけ、これは日本の昭和の家族の物語だ。

この作品に出てくる家族の一人一人が、それぞれに違うカタチの「愛」をもっていて、それが映画
の中でひとつの音楽のように巧みに紡がれる。

あるときは抽象的に、あるときは具体的に。

縦男の手で少しずつ調律され回復していくオルガン、焼け溶けた爆心地のジャングルジム、行進
する蟻と薔薇、つれあいを原爆で亡くした老人の無言の会話、鉈吉の駆け落ちと落雷で心中した
二本杉、「ピカ(原爆)」の目の絵ばかり描いていた鈴吉、碧の水をたたえた滝壺、信次郎の河童、
「倶會一處」を祈る8月9日の念仏堂、

そして雨の中のラストシーン。

爆心地にいるおじいちゃんの幻影を追いかけて、風雨のなかを駆けるおばあちゃん、4人の孫と
2人の子供がずぶ濡れになりながらそれを追いかける。
おばあちゃんの傘が一陣の風に逆立ち、それにオーバーラップしてにシューベルトの 「野バラ」が
響き、スローモーション。

映画でしか表現できない映像と音の美。

この映画は、このシーンにむかって撮られているにちがいない。

タイトルが狂詩曲だから、ひょっとしたら鉦おばあちゃんは狂ってしまったのかもしれないけれど、
おばあちゃんと同年代の人が撮ってる映画なんだから、あの瞬間におばあちゃんは、そして
ひょっとして監督自身も、なにかの軛から解放されたのだと信じたい。

you shall be released, Kane-san.

「お祖母ちゃんは、今や一個の凄惨な詩と化して、
横なぐりの風雨の中をよろめいて行く。
そして、雨と風を衝いて、
お祖母ちゃんの4人の孫と2人の子供がそれを追っていく。
それは、不思議な状況である。
悲痛だが、滑稽でもある。
涙ぐましいが、頬笑ましい。
そして、
世にも美しい光景だった。」

大雨と旗(おちょこになった傘は、歓喜の旗に見える)は黒澤映画の象徴のようなモチーフだ。

21世紀の今から振り返れば、この映画で表現されている家族のカタチは、もう無くなってしまった
懐かしいものの記録ようにも思えるし、今もどこかにまちがいなく存在する普遍的な日本の原風景
のようにも思える。

庭の石と同じように、作品そのものが変わるわけではないのだから、変わったのはきっとそれを
観ている自分自身なんだろう。

「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけに
しか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、
と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。( by 吉本隆明)」

映画にせよ小説にせよ、あるいは音楽にせよ、観るたびに違うものが見えてくるというその奥行きは、
優れた art piece だけがもてるものなんだ。


この映画に出演したリチャード・ギアは彼のことを「 a national treasure(国宝)」だと言いきっている、
「 You're very lucky to have him 」とも。

センセーショナルな大作ではないけれど、この「八月の狂詩曲」は、映画作家としての黒澤明の、
きらりとした輝きを感じられるメロウな佳作だ。


それにしても、この前の movie のエントリーが、ゴダールの「気狂いピエロ」、こんどが「八月の狂詩曲」、
どうしてこんなに「狂」に引き寄せられてしまうんだろう。

 


この時期比較的単調な本買が続く。
この単調なトレーニングを積んどかないと果実にならないのはスポーツと同じ。
Luck の女神はなんの予告もなく降りてくるからね。

修行にならないように、できるだけ大胆にやっていきたいな。 

 

■ Look ! Sibyl Heijinen   シビル・ハイネン   京都国立近代美術館     20070619

シビル・ハイネンは1961年生まれのオランダ人女性アーティスト。

この本は、2007年京都国立近代美術館で開催された「シビル・ハイネン:テキスタイルアート
の彼方へ」という企画展の図録です。

テキスタイルアート(ファイバーアート)は、布地や繊維を3次元的な立体素材ととらえ、オブジェ
やインスタレーションを制作するもので、70年代に始まった新しい表現のスタイル。

多層構造の柔らかな立体、皺のアート。

この本に掲載されているハイネンさんの作品には、金属や木材とまったくちがう表情があります。

テクスチュアとか素材感が大切な要素になる作品ですから、画像だけだと隔靴掻痒の感は否め
ませんが、それでも、テキスタイル=染めと織り という一般的な概念をくつがえすだけのインパクト
はあり、美術が新しい知覚への扉だとしたら、このハイネンさんのテキスタイルアートは、その
役割を充分果たすものではないかと思います。

日本とオランダの通商条約が結ばれてから400周年ということで、「日本オランダ2008-2009」
という公式のイベントが今開催されていて、ネットを見ると、このハイネンさんの講演会が桑沢
デザイン研究所で行われたという情報がありましたから、ひょっとしたらまだ日本にいらっしゃる
のかもしれません。


■ フランスの伝統色     城一夫     ピエブックス   20081123 初版第1刷

エルメスのオレンジ、ボルドーの赤、モネのブルー、ゴッホの黄、ブルゴーニュの葡萄色。

少し前にアップした「日本の伝統色」もなかなか味わい渋い色がそろっていましたが、フランス
の中間色にはなんともいえない上品さ(これを「エスプリ」というんでしょうか)が漂っています。

「日本の伝統色」でもコメントしていますが、色の本ですから、その色がどれだけ美しく紙の上
で再現(印刷)できるかがポイントなんですが、前作同様にしっかりと校正されていていい感じ。

すべての色にCMYK、RGB、マンセル、WEBといったデータがついているのも fine play ですね。

色の世界でフランスという国がはたしている役割の大きさをあらためて感じます。

                              
■ 池波正太郎自選随筆集 上巻・下巻   池波正太郎   朝日新聞社  19880115 第1刷

自選というのがなかなか微妙なところ。
恥ずかしいものの中に珠玉がひそんでいることだってよくあるし、やっぱり自信作は自信作
らしい恰幅を備えていたりもするし。

まあこの人の随筆集であれば間違いない、きっと本を読むことの愉しさを味わわせてくれる。
本業である鬼平や梅安の時代小説はもちろん無類の面白さだけれど、食べ物や旅のこと
などを綴ったエッセイの奥行きのある軽みは、ある種の達人にしか醸しだせないものだろう。

「上巻には食べ物、旅、散歩、下町、家族のことなど六十二篇、下巻には時代小説、芝居、
映画など五十篇及び日記を選び収録した。」

すぐに読みたくない。
ゆったりとした時間の中で、じっくりと一話ずつ読んでいきたい一冊(全2巻)です。

 

■ バーナード・リーチの日時計      C.W.ニコル   角川選書  19820830 初版 

タイトル買い。

焼き物に興味のある人間にとって英国人バーナード・リーチの名前は強い引力をもっている。
柳宗悦の「民芸運動」にとって欠かすことのできないこの人の足跡は、全国各地の窯場に
残っていて、スリップウェアという英国独特の技法に関しては、この人抜きに語れない。

と、ここまで書いたけれど、実はこの私小説のようなエッセイは、彼が出会った中省吾という
リーチの日本でのパトロンだった老人とニコルさんの出会いにまつわる物語で、バーナード
リーチのことが積極的に書かれているわけではなかったのだった。

 C.W.ニコルさんのことは寡聞にしてよくわからない。

エッセイが5篇、どれもそれなりに面白そうではあるけれど、サブタイトルが「青春の世界武者
修行」、表紙の謳い文句が「世界を家として生きる思考する冒険家の生エッセイ」という、まあ
センスの欠片もないもので、これでかえって損してるんじゃないかという気がしないでもない。

別所哲也ではなく、この人こそが「ハムの人」でしょう、本とは関係ないけど。


■ 日本の不思議な宿      巌谷國士     平凡社     19951030 初版第2刷

フランス文学者、シュルレアリズム研究家、そして澁澤龍彦の畏友でもある巌谷さんによる旅行記。
今は亡き雑誌「太陽」に2年にわたって連載(93-94)されたエッセイで、「ユーロッパの不思議な町」、
「アジアの不思議な町」につづく、「不思議」シリーズの第3弾になる。

「むしろ一見ふつうであり、正統的・伝統的なものであっても、こちらの感覚が微妙に反応して、
いわくいいがたい驚きをよびさまされるような場合、それを『不思議』と呼んでおくことにしたい。
英語ならワンダー、フランス語ならメルヴェイユだろうから、ニュアンスは『驚異』に近い。」

建築、文学、美術、町、風景、見世物、記憶、思い出、デジャ=ヴュがキーワード。

15年前のこの旅行記の宿や風景は、どこまで現存しているのだろうか。

以下、24の「不思議な宿」である(掲載順)。

箱根塔ノ沢 環翠楼 
伊豆松崎 山光荘 
桑名 船津屋 
宝塚ホテル 
城崎 三木屋  
舞鶴 松栄館
奈良ホテル 
飯坂 なかむらや   
花巻 松雲閣 
大湯 千葉旅館
礼文島 コリンシアン 
登別 第一滝本館
小樽 越中屋
伊香保 千明仁泉亭
角間 越後屋
入山辺 霞山荘
鶴来 和田屋
石垣島 民宿石垣島
鹿児島 重富荘
嬉野 和多屋別荘
松江 皆美館 
下津井 六口島花壇
佐田岬 金沢旅館
明治村 帝国ホテル


*

 

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去年いちばん良かったのは、
「快適じゃなければ、地球なんてなくなったっていいんだ」と、はっきり言えたことだ。

たぶんこの2009年に、これまで以上に加速度的に展開されるであろうエコ/グリーン・マーケティングの
ムーブメントに対して、「まずは自分にとって気持ちいいコトを考えることからしか、明るい未来ははじまら
ない」という、ひとつのモノサシが設定できたのはとても大きいことだったように思える。

エコロジーや地球環境にネガティブな気持ちを持っているわけじゃないけれど、それにまつわる phony な
ものや smell fishy  なことに、はっきりと NO ! といえるのは、やはり気持ちいがいい。


そんなことを考えながら年末の雑事を終えたら、司馬遼太郎が読みたくなった。
なんとなく、おそらく「激動」と後述されるだろうその年の初めにふさわしい気がしたのだ。


■ 春灯雑記     司馬遼太郎     朝日文庫      20000420 第7刷


「むろん小説ではなく、まして論文ではなく、述懐というべきものである。」

安っぽい政治家がよく愛読書として取り上げたるするから、イメージとしての司馬遼太郎にはスクエアな
印象がつきまとうけれど、実際に読んでみるとどの作品にも、大阪の人らしい軽みと反骨心が底に流れ
ているし、とにかくその「知」の容量に圧倒される。

巷間人気の高い歴史小説も、もちろんとても面白いんだけど(松陰を描いた「世に棲む日々」なんて最高
です)、エッセイや評論のまったりとした語り口は、柔らかな滋味にあふれていて、この本もおそらく既読
のはずだが、読み返すとあらためて様々な 想いにとらわれ、司馬さんの one and only を噛みしめること
になった。

臓器移植というテーマを、仏教の倫理感をとおして話しかける「心と形」
肥後細川家と東条英機の、ある関わりについての述懐「護貞氏の話」
スコットランドを旅しながら、その国の矜持について語る「仄かなスコットランド」
文明というものを語り、日本がステートとして自立することの覚悟を説いた「踏み出しますか」
英国的な duty の概念を語り、これからの日本のあるべき姿を示唆する「義務について」

この5つのタイトルに共通しているのは、司馬さんが思いめぐらせる、地球という共同体のなかでの日本
あるいは日本人のあるべき姿、といったようなことじゃないかと思うけれど、中でも最後の「義務について」
という一文は、とても印象深いものだった。


講演をベースにした文章なので口語体である。

「どこで居眠って下さってもいいように、のんきにお話ししようとおもっています。」

などと聴く人(読者も)を少し油断させながら、明治期の日本が世界の一員となるために「猿真似(=海外
文化を自ら輸入し自家薬籠中のものにすること)」からしか始められなかったこと、そしてそのために明治
の人たちが、江戸時代までの日本語をいったんご破算して、あたらしいコトバを造らざるを得なかったこと
(たとえば 「宗教」という言葉を、「religion」の訳語として発明したことなど)に言及し、この講演のテーマ
である「義務」という概念が、英国の「duty」からきていることまでをさりげなく「述懐」し、そしてさらに、この
「duty」が、プロテスタントとなった英国人の自律心(全体のなかにおいて、自分の役割を自分で考えると
いうこと)による発明(16世紀頃)であったことを、まるでミステリー小説の探偵のように、解き明かす。

「自分が自分できめた-全体の中で自分の役割を考え-自発的に"自分はこうあるべきだ"として、自分
に課した自分なりの拘束性、それが duty であったろうとおもいます。」

ノブレス・オブリッジ(noblesse oblige)を野暮だといいきり、責務(obligation)を語感がちがうと告げて、
duty という言葉を取り出し、再定義したのは、「個」の人である司馬さんの面目躍如たるところだろう。
noblesse oblige も obligation も、どちらかというとニュアンスとしては上から目線だからだ。

そしてこのロンドンでの講演をこのように、愛をこめて、締めくくる。

「最近(日本は)、やっと世界という共同体に対して、一人前であることの自覚を持ちました。オトナとして
は、まだ馴れない大人です。大人、一人前、世界の正会員(これは前章「踏み出しますか」からのテーマ
でもある)という意味は、世界や人類に対して義務感をもつかどうかということだけが、基準です。 政府
レベルだけが、世界に義務感をもつだけではオトナではないのです。日本人と名のつくひとびとが、一人
ずつ、世界という見えざる共同体に対して義務をもつという以外に、日本が生きのびていく道はありません。

中略

『そうすることが、私の義務ですから』と、ゆたかに、他者のための、あるいは公の利益のための自己犠牲
の量を湛えて存在している精神像以外に、資本主義を維持する倫理像はないように思うのです。
でなければ、資本主義は、巨大な凶器に化するおそれがあるとおおもいになりませんか。

人間も企業も、つねに得体が知れなければならない。それは、新鮮な果汁のようにたっぷりとした義務
という倫理をもっていることであります。」

箴言。

この文章は、1990年の講演に加筆して発表された(1996)ものだけれど、その後バブルを経た現在も、
日本人の心的状況は何一つ変わっていない、むしろ昨今のありさまとしては、「大人としての倫理」という
概念さえ消え去ってしまったように思える。

冒頭にあげたエコロジーに対するスタンスも、一人一人が個人として、この duty を意識することさえ
できれば、つまらない誰かの金もうけに加担しなくて済むはずなんだけれど。

このことを、「まことに平凡で素朴なこと」だとサラッといえる司馬遼太郎は、とても男前だと思う。

*

正月だからといって本棚が変わるわけではないけれど、おそらく一年でいちばん古本屋さんに人が集まる
時期だから、なんとなく華やかな気配が漂っている。

そのザワザワした正月の気配の中で、本を探すのもまたイイ感じなのだ。


■ 花森安治の編集室    唐澤平吉    晶文社   19970930 初版

机を並べた弟子が描く頑固者編集長の伝説と素顔。

面白いのは、花森安治が使う「装釘」という文字についての話だ。

「本の内容にふさわしい表紙を描き、扉をつけて、きちんと体裁をととのえるのは装訂ではない。作った
人間が釘(クギ)でしっかりとめなくてはいけない。書物はことばで作られた建築なんだ。だから装釘で
なくては魂がこもらないんだ。装丁など論外だ。ことばや文章にいのちをかける人間がつかう字ではない。
本を大切に考えるなら、釘の字ひとつもおろそかにしてはいけない」

書物がことばでつくられた建築というのは名言だとおもいますが、「釘」論はなんか無理があるような。

でもこれくらいの断言力がないと、個性的な雑誌はつくれないのかもしれません。
なんといっても雑誌は編集長の個性で動くものですから。


■ 陶芸の釉薬    大西政太郎    理工学社   19760825 第3刷

たぶん実際に焼きものをやったことがある人しかわからないだろうけれど、
釉薬は魔法そのものなんだ。

ただの灰や金属の泥漿が、炎をくぐり抜けることで宝石に変わる。
はじめてこの魔法に出合った原始の人の驚きはどんなものだったか。

炎の不思議を人の手でコントロールすることは不可能だし、それこそが焼きものの奥深さだけれど、
自分がもっているイメージに限りなく近づけることはできる。

釉薬の本として古典といわれているこの本はその教科書。
原理と基礎から応用と発展まで、プロアマ問わず必携の一冊じゃないかと思います。

専門書なので、「読む」本ではないのですが。


■ ハプワース16 一九二四        J.D.サリンジャー         荒地出版社     19831130  第5刷

公表されているサリンジャー最後の作品(1965)、つまりこれが最新作ということになる。
New Yorker に掲載された中篇だけれど、アメリカでは未だに単行本化が許可されていないそうだ。

バナナフィッシュの話を少女とした後、ホテルの一室で自らのこめかみを撃ち抜いたあのシーモアが、
7歳のとき、ハプワース湖のキャンプ場から両親に宛てて書いた長い手紙。

グラス・サーガは、けっきょくシーモア(see-more)の物語なのだと思う。

禅そのもののような長兄の不在。
末妹フラニーが、ある作品の中でうめくように呟いたコトバ、 「わたし、シーモアと話がしたい」

これがすべてだ。

亡くなったというニュースがないので、ニューハンプシャーでの隠遁生活を送っているのだろうが、
ホントに生きているならもう90歳だ。

シーモアの自死とサリンジャーの隠遁がクロスオーバーしているように思えてしかたがない。

 

■ やつらを喋りたおせ!    レニー・ブルース    晶文社    19931120 2版  

伝説のスタンダップ・コメディアン、というよりはカルト・ヒーローの自伝。
これを書いたあと、彼はハリウッドヒルズの自宅の洗面所で注射針を腕に残したまま独り逝った。 

スタンダップ・コメディは、アメリカ独特の笑芸で、漫談といわれるものとはニュアンスが違うように思う。
日本でいうとある時期の「ガキの使い」のダウンタウンの「フリートーク」がそういう雰囲気を持っていたし、
「Saturday Night Live」のジョン・ベルーシやエディ・マーフィーはあきらかに、この人を意識していた。

猥褻や麻薬の概念は、時代と場所で変わっていくものだから、50-60年代初めのアメリカで、この人の
HIP感が受け入れられなかったのはしかたないことだと思うし、繊細なアーティストがアンダーグラウンド
で居続けることに耐え切れないのもよくある話だけれど、ジャズ、道徳性、政治、愛国心、宗教、法律、
人種、KKK、教会、妊娠中絶、ドラッグ、こういったことすべてを一人のコメディアンが背負うことは、
やはり too much だったのだ。

彼の「笑い(=哀しみ)」の根源は、「Jewish(ユダヤ人)」であるということだったんじゃないかと思う。
アメリカで Jewish であることのホントの痛みは、とうていぼくたちにはわかり得ないけどね。

彼の生涯は1974年に「Lenny」というタイトルで映画化(「オール・ザット・ジャズ」のボブ・フォッシー
監督作品で、同年のアカデミー賞では「ゴッド・ファーザー2」に敗れた)されている。
主演ダスティン・ホフマン(彼も Jewish だ)のレニーは、一世一代のハマリ役でしょう。

原題「How to Talk Dirty and Influence People」、いくら藤本和子訳でも、この邦題はいかがなものか。
著者の意を曲解する権利は、編集者にも翻訳者にも与えられていない。

 

■ ROBERT MAPPLETHORPE Whitney Museum of American Art 1988 second printing

昨年2月最高裁の猥褻裁判で逆転勝訴した、いわば最高裁認定芸術写真集。

パティ・スミスの恋人、写真はモノクロ、エイズでの早世。

黒人の男性ヌードという素材のインパクトが強いので、「官能性」というところに耳目は集まりがちですが、
端正でバランスのとれた構図と完璧を求める美意識の高さが彼の写真の本質ではないかと思います。

写真がファインアートとして一般に認知されるようになったのは、この人の功績も大きいんじゃないかな。

大判の写真集を買うのはどんなときでもちょっとウレシイものだけれど、こういうビッグネームの良質の
作品集を、うまく手に入れられたときの気分はまた格別。



ことしのテーマは、「旅」です。
いろんなところにいって、いろんなものを買いたい。


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