2009年4月アーカイブ

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冒頭の、トウモロコシ畑の向こうに輝く小さなスタジアムのシーンを見ただけで涙が出そうになる。
勢いあまって、長い間読めないままに本棚で眠っていた原作まで読んでしまった。


■ フィールド・オブ・ドリームス/Field of Dreams   Phil Alden Robinson     Universal 1989

■ シューレス・ジョー/Shoeless Joe   W.P.キンセラ    文藝春秋  19850410  第2刷


もちろん原作と脚本ではディテールが微妙に違ってはいるけれど、底に流れているものは変わらない。

彼は声を聞く。

" If you build it, he will come. "

彼はそれが野球場だと感じとる、それがすべてのはじまりだ。

この物語には、アメリカの様々が、満ちあふれている。

まずシクスティーズの残滓。
何年も前に見たときにはあまり気がつかなかったけれど、映画ではシクスティーズを感じさせる演出がちりばめられている。

なにしろ主人公レイ・キンセラは、父親から逃れるためにブルックリンからあのU.C.バークレーに進学し、ウッドストックを経験し、フラワーチルドレンになり、コミューン的に結婚 した妻と農場を経営しているという設定なのだ。

農場に建っているレイの家の壁にかけられたウォーホルの「マリリン」、妻のアニーの口癖 " Far out ! (ステキ!) " 、おんぼろのフォルクスワーゲンのバス(原作ではくたびれたダットサン)、そしてその車のウィンドシールドに飾られているピースマーク、レイがいつも着ている首がのびたBerkeley のTシャツ、オールマンブラザースの「Jessica」、きわめつけは、レイが不思議な声を聞いたと妻のアニーに告げた時、「アシッド(LSD)のフラッシュバックじゃないの」と彼女が真面目な顔をしてつぶやく場面だ。

この60年代という設定は原作にはまったくないものだから、脚本も書いた監督フィル・アルデン・ロビンソンのリアリティなんだろうけれど、それは映画全体を包みこんでいる理想主義の底流になっている、まさに Love and Peace 。

そしてJ.D.サリンジャーの幻影。
サリンジャー(映画では黒人作家テレンス・マン)の匂いが物語のあちこちに漂っている。

主人公の名前はレイ・キンセラ、キンセラは作者と同じ姓で、レイが作者の分身でもあることを表しているんだけれど、それは同時にサリンジャーの短編(「ウエストのない1941年の若い娘/A Young Girl in 1941 with No Waist at All」)の登場人物の名前でもある。そして「ライ麦畑でつかまえて/The Catcher in The Rye」には、主人公ホールデンの級友として、弁論表現の授業で、いつも要点をはずしてばかりいるもんだから、みんなから「脱線!」といわれてばかりいる気の小さい、リチャード・キンセラという名前が登場し、それは、原作だけに登場するこのレイ・キンセラの一卵性双生児の兄弟と同じ名前だったりする。

 曰く、「合図、前兆、お告げ(a sign, an omen , a revelation) 」

そうでなくても、物語そのものが充分にサリンジャー的だ。
打算のない無償の行為、子供のころにはもっていたのにいつの間にか忘れてしまった無垢な心、お互いを赦しあう深い思いやりと理解、そして真実の愛。 ニューヨークを彷徨いながらホールデンが希求したものすべてがここにあって、レイ・キンセラはまるでホールデン・コールフィールドの裏返しの分身みたいだし、スクエアな人(たとえばコンピュータ・ファーミングを営んでいて、彼らの農場を欲しがっているアニーの兄やアニーの家族たち)には、このフィールドでプレイするシューレス・ジョーの姿が見えないっていうのも、ヒッピー的な表現だろう。

なによりも野球への憧憬。
この物語のすべてが、ベースボールという信仰へのオマージュといってもいいかもしれない。

アメリカ人にとってベースボールは、変わらないものの象徴だ。
シューレス・ジョーやムーンライト・グラハムは、その " national treasure " のアイコンなんだろう。

芝生の匂い、打球の音と大観衆のざわめき、ホットドックとビール、7th inning stretch に立ち上がって歌う「野球場に連れて行って(take me out to the ballgame)」、スタジアムに行けば、それはいつもある

WBCにはシビレないけれど、フェンウェイ・パークのファイン・プレイには熱くなる人たちがそこにいる。

野球は、たぶんどこまでいってもアメリカ人のものなんだ。
映画や小説や詩でアメリカ人が描く野球には、どれも郷愁や夢や友情や愛や癒しに満ちあふれていて、こんな風にこのスポーツを表現できるのは、それを心の故郷と感じている人にしかできないことだと思う。

最後は、父親とのキャッチボール。
そのベースボールを pure に突きつめると、この映画のラストシーンに行きつく。

" Ease his pain. "

美しい夕暮れの光の中で、レイは、蘇った若き日の父親ジョン・キンセラとキャッチボールをする。

John : " So baeutiful here, for me it's like a dream come true. " 
          " I ask you something,  is this heaven ? "
Ray :  " It's Iowa. "
   ・
Ray :  " Is there Heaven ? "
John :  " Oh yeah,  It's the place dream come true. "
Ray :   " Maybe this is heaven. "

そのときレイは、" he will come " の " he " が、シューレス・ジョーではなく、父親だったことに気づく。 

 " Hey Dad, do you want have a catch ? "

" I'd like that. "


そしてどこまでも続く、「Field of Dreams ( come true )」を求めてこの小さな野球場へ向かうヘッドライトの列。
このラストシーンの空撮ショットは、美しい。 

Heaven は、どこにでもある。 


*


エコに名を借りた Phony な猿芝居がはじまった。

エコカーに乗り換えるより、今乗ってる車に乗り続けるほうが環境に優しいに決まってるじゃないか。
1台の車を製造するエネルギーはとてつもなく大きいし、乗り換えたまだ走る車はどうするんだよ。

税金を許可無なくトヨタに払うのはやめてほしい、つぶれかけたGMにだってそんなことしてないんだから。


なんとなく気ぜわしく、じっくりと本買いができていない。
暖かくなって、写真集や作品集に動きがでてきている感じはするんだけれど、そういう本に限ってなかなか補充できないんだな。 よく古本は一期一会っていうけれど、ここにきてそれを実感している次第。


■ 沼地のある森を抜けて    梨木香歩   新潮社    20060830 7刷  ¥950

この前読んだのが旧い家の話(家守綺譚)、今回は「ぬか床」の話らしい。

ぬか床?

先祖伝来のぬか床を毎日かき回すうちに、ある日、ぬか床から卵を見つけ、そしてそれが割れて、小さくて透明な男の子が現れた。

ぬか床から子供?

こんな風にこの作者はわれわれを物語にひきこんでいく、「家守綺譚」でもそうだった。

けっして奇をてらっているわけではなく、ごく自然にあやかしが発生し、たとえばこの本だったら「生命のうねり」というテーマのなかで、ナチュラルに、ときには官能的に、そして飄々と(なんとなくとぼけた味があることで、グロテスクになっていないんだ)書き綴られるものがたりに感応させられてしまうのだ。

   ― ちょうどよかった。教えてください。これはみんな、夢なのだろうか。本当のことなのだろうか。
   ― 夢だから何? 本当のことだから、何?
   ― 不安で不安で、しようがないのです。全て、触れれば消えてしまう幻のような気がして。今までのこと全て、僕が今まで考えたこと全て。確かなものが欲しいのです。確かな、確かな、絶対に消え失せない真実のようなもの。この足でしっかりと踏みしめられる揺るがない大地のようなもの。
   ― ああ。
と、アザラシの娘は深いため息をついた。

これはもうナシキ・ワールドといってもいい one and only の宇宙なんじゃないんだろうか。

「Field of Dreams」もそうだったけれど、けっきょくファンタジーのリアリティは、書き手のリアリティとオーバーラップしていくものなんじゃないかと思う。

イギリスに留学し、ガルシア・マルケスの「百年の孤独(解説も著しているそうだ)」が愛読書だそうで、さもありなん。


■ 假象の創造    青木繁   中央公論美術出版   19740615 2刷 ¥2500

有名な「海の幸」という絵のことしか知らなかったけれど、この旧い本の佇まい(ダンボールのシンプルな蓋型のケースの中に、さらに普通の函そして本にはパラフィン紙、丁寧かつシンプルなデザインの造本)がいい感じで、なんかこの本を他の人に獲られるのがイヤな気がして、おもわず買ってしまった。
いわゆる出会い頭の一発。

あのプリミティブで力強い(といっても印刷物と画像でしか見たことはないんですが)「海の幸」の印象が強いし、若くして(享年30)亡くなった人だということも知っていたので、河東碧梧桐が「彼は単に画に於ける天才であったのみならず、文章に於ても亦よく創造的気分を発揮した。彼は歌を作れば歌人となり、文章を書けば文人となり、楽器を手にすれば又たよく楽人となり得たであらう。彼は画家ではなかった、寧ろ詩人であった。」と評したというその人の文章がどんなものか、興味津々ではあります。

この本に収められている書簡の一節、明治37年8月22日のもの。

「雲ポッツリ、
又ポッツリ、ポッツリ!
波ピッチャリ、
又ピッチャリ、ピッチャリ!
砂ヂリヂリとやけて
風ムシムシとあつく
なぎたる空!
はやりたる潮!
・・・
これが波のどかな平沙浦だよ、浜地には瓜、西瓜杯がよく出来るよ、
蛤も水の中から採れるよ、
晴れると大島利島シキネ島等が列をそれえて沖を十里にかすんで見える、
其波間を漁船が見えかくれする、面白いこと、
夫れから東が根本、白浜、野島だ、
僅かに三里の間だ、野島崎には燈台がある、
沖では
クヂラ、
ヒラウヲ、
カジキ「ハイホのこと」
マグロ、フカ、
キワダ、サメ、
がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、
恐しい様な荒っぽい事だ、
・・・・・・・
・・・・・・・
今は少々製作中だ、大きい、モデルを沢山つかって居る、いづれ東京に帰へつてから御覧に入れる迄は黙して居よう。」

まるで、そのまま「海の幸」を観ているみたいだよね。


■ 袋小路の男   絲山秋子    講談社    20060126  第10刷  ¥600

この前読んだ駄作(「逃亡くそたわけ」)とは、本の雰囲気からして明らかにちがう。
小川国夫の選評よれば「純愛物語」だということだが、きっといい小説なんだろう。

「あなたにとって私って何なんですか」
 あなたは数秒考えて、そしてカタカナで答えた。
「ワカラナイ」

  ― あなたを好きな自分自身への純愛。

この人にはなんとなく坂口安吾を感じている。

安吾にも「吹雪物語」という未完に終わった純愛小説があり、やはり彼は彼女に指一本触れないという小説だった。
「袋小路」と「吹雪」という比喩にも、イメージの近親感はある。

なんにしても、「ねじれているのに、まっすぐ」という男と女の関係は悪くない。 

けっきょく作家というのは、最終的にひとつひとつの単語を選ぶセンスのところに行きつくわけで、壮大なストーリーも精緻なコンセプトもそのセンスが悪ければまったく伝わらないし、好き嫌いを決めるのも、そのセンスが決め手になることが多い(だから翻訳モノに困るんだけど)。 そういう意味で、この「袋小路」という語感は悪くないし、「沖で待つ」っていうのもなかなかのものだった。

 川端康成文学賞受賞作、この賞はクオリティが高いと思います。

それにしても、やっぱり「やさぐれた男」って吸引力が強いなあ。


■ 横尾忠則ポスタア芸術    横尾忠則   実業之日本社   20000530 初版第1刷  ¥2500

本のタイトルがすべてを表している。

横尾忠則 / ポスタア / 芸術
横尾さん以外に広告メディアであるポスターを、グラフィック・デザインではなく芸術と呼べるひとは、それほど多くない。

主に1995年以降に制作されたポスターから、アーティスト自らが選んだ135点。

どれもが、すごい。

「モダニズムデザインが排除した様々な要素を拾い集めること。例えば私的領域からの発想、そして、情念や感情をデザインの中に取り戻す。神話や物語の復権、死や夢やエロティシズムなどのロマン主義の導入、科学とオカルティズムの対立、さらにデザインと美術の境界の平面化によってモダニズムデザインの超克が可能かということに、ぼくの興味は傾いていった。( by 本人)」

モダニズムを突き抜けたポップアート。 

これ以上の解説はありません。


*


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フォームのことを教えてくれたのは、阿佐田哲也こと色川武大さんだった。

「フォームというのはね、今日まで自分が、これを守ってきたからこそメシが食えてきた、そのどうしても守らなければならない核のことだな。気力、反射神経、技、それ等の根底に、このフォームがある。まず、自分流のフォームをつくらなければならないんだがね。それは一生を通じて自分の基礎になっていくものだから、あやふやな概念で組み立てるわけにはいかないだろう。」

「思いこみやいいかげんな概念を捨ててしまってね、あとに残った、どうしてもこれだけは捨てられないぞ、と思う大切なこと。これだけは守っていればなんとか生きていかれる原理原則、それがフォームなんだな。(うらおもて人生録 1984)」


このあとに続く九勝六敗という「運」にまつわる話もなかなかコクがあって、これもまたそうとう面白いんだけれど、ともかく持続(つまり生き残ること)こそがプロの要諦で、そのためにはフォームがなによりも大切なんだと説いて、

「ことわっとくが、フォームに既製品はない。自分で手縫いで作るんだよ。」

と言いきるこの無頼の人のこの言葉。

少し前のエントリーで引用した、司馬遼太郎さんが提示してくれた「自分が自分できめ自発的に"自分はこうあるべきだ"として、自分に課した自分なりの拘束性」という「duty」の概念も、ニュアンスとしては近いかな。


Kさんから本棚(library)をつくる仕事を頼まれた時、まず浮かんだのはこのフォームのことだった。

Kさんは、この前コトバノイエの30冊のセレクションをしていただいたKさん、本棚はKさんのオフィス、K工務店のミーティングルームにある2145mm x 5段の本棚、びっしり詰めれば500冊近くは並ぶ。

最初から完成させるのではなく、少しずつ成長していくような本棚にしていこうというのが最初の決めごとで、本の量はそのプランの中で表現されていくことだから、キャパシティそのものはあまり意味のないことだけれど、それでもやはり、それなりの数にはなる。

コンセプトは、美容室のときと変わらない。

「そこに書かれている内容だけじゃなく、ブックデザインや組み合わせも含めたセレクションで、そこに在ること自体がそのスペースやそのショップやその人の表現となるような本棚をデザインすること。」

「差別化がマーケティングのキーワードとなっている時代に、本というものが(単にディスプレイとしてだけじゃなく)、そのひとつのマティリアルになることがあったってい いんじゃないだろうか。」

という想いである。


その本棚のある場所は、これから家を建てようとする人たち、つまりKさんにとってのお客さんとのセッションの場であり、時には建築家との打ち合わせやスタッフミーティングにも使われるというところ、そういう場に合わせてこのコンセプトをアレンジするとこんな感じになった。

「その本棚を眺めた人(読む人ではなく)が、K工務店の造る家(空間)での生活をイメージできるような本棚、そして同時にK工務店の resource library であること。」 

セレクションの大きなカテゴリーは、home(様々な生活のシーン)と house(家づくり)
そしてそこから派生する細かなセグメント。

ここまではまあ手筋だ。

じゃあそれはどんな本なんだということがじつは本題で、その段階になって件のフォームのことを考えたわけだ。
カタチの上ではいろいろなスタイルが考えられるんだろうけれど、なによりもまず芯のようなもの(フォーム)がないとセレクションにとりかかれない、じゃないと迷ったときに(必ず迷うのだ)いいかげんな決めかたをしてしまうことになるからだ。

とりあえずそれらしい本をピックアップしながら、まず考えたのは fairness、フェアにいこうということだった。

予算やスペースに拘束されるとはいえ、本はそれなりの数になる。
そうなるとどうしても「売りたい」本が顔をのぞかせる。

誰かのために本を選ぶとき、この「売りたい」はちょっと問題なんだ、「売りたい」に「愛」はないからね。

仕事としてある種の契約をむすんでやる営利的な行為だから、利害、あるいは個人的な感情から自由になることはできない。でもセレクションにそういう恣意がはいってしまうと、どうしても独りよがりだったり頭でっかちなものになってしまうことが多いし、それを押しつけることは誰のためにもならないことだから、できるだけそういったものはないほうがいいだろう。

フェアっていうのはそういう意味だ。

簡単にいうと、自分の都合や思惑だけで本を選ばないということ、そして同時にそれは工務店サイドの都合を、施主や施主候補の人たちに押しつけるものであってもならないということでもある。

こうやって書いてしまうと、ごくあたりまえのことのように思えるけれど、じっさい目の前にその都合が横たわっていると、それが案外難しくて、ああでもないこうでもないと考えているうちに、ついイージーな方向にいってしまったり。

けっきょくこのフェアネスっていうのは、どれだけそれを見る人の立場になれるか、究極的にいうと、クライアントをどれだけ愛せるか、というところに行きついてしまうようだ。 そしてそれは、はからずも、メールのやり取りのなかでKさんがいっていた、「照れくさい言葉ですが、『愛』のある本棚になれば」というところと、つながってしまったのだった。

たしかにちょっと照れくさいけど、最後はやっぱり「愛」、All You Need Is Love なんだ。


そして、もうひとつの軸は、「HIP」であるということ。

でもこれはちょっと説明不能かな、言葉ではぜんぜんうまく表現できそうもない。

HIPはコトバノイエの属性みたいなものだ。
それはこのブックショップを通底する価値観のモノサシで、スタイルでもあり在りかたでもある。

まあ自分の頭で考えること、とか Be on your own といったようなこと。 

A か B かで迷ったときに、取捨選択の最後の基準になるのが、このHIPというモノサシなんだけれど、基本的にはコトバノイエの本棚に並ぶ前のところで、そのフィルターを通してあるわけだから、本のことでコトバノイエを選んでいただいた方にもれなくついてくるオマケみたいなもんと考えていただきたい。

どちらかというと、こちらがコトバノイエの「フォーム」なのかもしれない、と思う。

あと もうひとつ忘れてはいけないのは coincidence( 偶然)というファクター。

ふとした偶然、じつはこれがいちばん面白い、たまたまとか出会いがしらってけっこうパワフルなのだ。
そういうのは偶然ではなく、天から降りてきた啓示、必然と考えるべきだと思う。


ともかく、そんな風にブックリストがつくられ、ちいさなプランツやK工務店のヤングダイクが拵えてくれた杉板のブックエンドやグラフィックのYくんが造ってくれたタイポグラフィや工事風景のフォトスタンドや元から住んでいたこのライブラリイの住人たちと一緒にディスプレイされたのだった。

 

あの本棚がうまく育ってくれらたいいなあ、と心から思う。

 

*

 

天気が良かったので、江坂と天神橋をハシゴした。

車検を受けてタイヤを交換したばかりのSAABで走ると、いつも混んでいる淀川を跨ぐ橋がガラガラで、広がった視界の向こうでに水面がキラキラと輝いて、とてもキレイだった。

やっぱりウォーターフロントっていいなと思う。


引っ越しのシーズンは本の動きが早い。


■  The New Religions of Japan    HARRY THOMSEN   TUTTLE  1963 first edition

長い間ずっと均一棚にあって気になっていた洋書を、読めもしないのについに買ってしまった。
デンマーク人のキリスト教の宣教師が戦前戦後の日本の新興宗教を考証した本のようだ。

こういうものは、外国人のほうがよく見えているんじゃないかという気が、ふとしたのだ。

当時171あったという新興宗教を、古い新興宗教(天理教・黒住教・金光教=幕末三大宗教)、日蓮グループ(創価学会・霊友会・立正佼成会)、大本教グループ(大本教・三五(あなない)教・生長の家・世界救世教・PL教団)、その他に分けて分析している。

中でも、これらの日本の新興宗教の共通の特徴としてあげている項目が興味深い。

1, They center around a religious mecca ご本尊・聖地のまわりに集まる

2. They are easy to enter, understand and follow. 入りやすく解りやすく受け入れやすい

3. They are based on optimism. 基本に楽観的 不安は持たない

4. They want to establish the kingdom of God on earth, here and now. 今この場での救済 現世利益

5. They emphasize that religion and life are one. 信仰と生きることはひとつのものと強調する

6. They rely upon a strong leader 教祖絶対 強い教祖様に頼る

7. They give man a sense of importance and dignity 大切にされ敬われていると感じさせる。

8. They teach relativity of all religions 宗教はどれも似ていると教える

これって一種の組織論だよね。

一神教のキリスト教から見れば、ほとんど宗教とは見えないんじゃないんだろうか。


■ アントナン・アルトー論    スーザン・ソンタグ    コーベブックス   19760830 初版

The New Yorker 1973/5/19日号初出

「Approaching Artaud」

あのソンタグが、ヒッピーたちよりも30年早くペヨーテを体験していたという、難解なシュルレアリストを論じる、そのことだけでも充分エキサイティングだ。今はもう存在しないローカルな書店が発行しているというところも好ましい。

詩人であり演出家であり役者であり、最期は精神病院にいった異才。

シュルレアリストの中では、デュシャンとこの人が圧倒的に純度が高い、そしてその分短命(デュシャンは長生きしたが、若くして隠遁した)だった。

「アルトーは作品にも人生にも失敗した。」

ソンタグの評論はここからはじまる、あくまでもクールなのだ。


■ なにを買ったの? 文房具    片岡義男   東京書籍    20090401 第1刷

伊東屋をぶらつくのは楽しい、本屋にいるのと同じように2時間くらいあっという間にたってしまう。
必要に迫られてみるアスクルのカタログとはえらい違いだ。

文房具のフォトブック、片岡さんの新刊(新古ですが)を買ったのはほんとに久しぶり。

黒いミューズボードの上に絶妙にレイアウトされた文房具たちの写真に、

「いま僕は一本の鉛筆を手にしている。ひとり静かに、落ちついた気持ちで、指先に一本の鉛筆を。たいそう好ましい状態だ。少なくともいまはひとりだけでここにいる自分というものを、その自分が指先に持つ一本の鉛筆は、すっきりと増幅し際立ててくれる。いまきみは孤独だ、とその鉛筆は僕に言ってくれている。 孤独な僕は、I think better with a pencil in my hand. というワン・センテンスを思い出す。鉛筆を手にしていると自分はより良く考えることができる、という意味だ。ずっと以前にどこかで読み、それ以来いまも忘れずにいる。考えるためには、人は孤独であるのが、もっとも好ましい。考えるとは、心が精神作用を営んでいく過程の、ぜんたいだ。考える営みとは、心とその働きそのもののことだ。そして心にとって最高にクリエイティヴな状態は、孤独より他にあり得ない。」

いつものように、こんなクールな文体が重なる。

面白いのは、文房具にはピラミッド上のヒエラルキーがあって、一本の鉛筆(ステッドラーの2Bから始まる)が、その頂点に立つと断言していることだ。

「色鉛筆、各種の筆記具がそれに続き、それによって書かれるはずの文字や図形を受けとめる簡便きわまりない平面として、紙つまりノートブックが、ピラミッドの高いところに位置を取る。裾野に向けてピラミッドの斜面は広がる。その四つの斜面に囲まれた内部の平面を、ありとあらゆる機能の文房具が、何層にも重なり合いつつ埋めつくす。」

文房具のことをこんな風に考えられるのは、この人だけだろうと思ったら、なんだか可笑しくなってきた。


このひとりごとがなんとも素敵なのだ。

 

■ つくられた桂離宮神話    井上章一    弘文堂   19870715 初版第4刷

関西の頭脳(?)、井上章一の桂離宮論

美人論、霊柩車、ラブホテル、名古屋、阪神タイガースこの人の関心は、知ったかぶりとか偽善的なものなどに注がれる。

神話はいかにつくられるか。

この本でも、桂離宮そのものの美しさや成り立ちが論じられているのではなく、有無を言わさず美しいといわれているその神話性に焦点をあてて、通念やイメージが、どのように形成され、ひとつのブランドとして流布されたかということを考察している。

頭のいい人だから、学術的な水準を落とすことなく、読み物としての面白さにもあふれていて、関西のパトロン、サントリーから学芸賞をもらったのもうなずける。

桂離宮は安吾もブルーノ・タウトをからめて鋭く論じているけれど、とにかくタウトと桂離宮は、日本人が外国人のオーソライズに弱いことの典型というようなケースで、井上さんもまずここからはじめて、タウトにコロンとやられてしまった知識人や建築家を、関西的に「笑って」いる。

ひょっとしたらこれが元凶じゃないかと、みんなが感じているその「ひょっとしたら」をうまくつくのが、彼の真骨頂だろう。

しかも誰もが知ってるものじゃなく、微妙にマイナーなところを狙うのがうまいのだ。

 

*

 

本を特集した雑誌」のブックリスト

そしてそのKさんのセレクション、「 木村工務店の木村貴一さんが選んだコトバノイエの30冊」もぜひご覧あれ。


 

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