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2009.02.09

too hard to bite

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「真っ白な原稿用紙を拡げて、何を書くかわからないで、詩でも書くような批評も書けぬものか。例えば、バッハがポンと一つ音を打つでしょう。その音の共鳴性を辿って、そこにフーガという形が出来上る。あんな風な批評文も書けないものかねえ。即興というものは一番やさしいが、又一番難かしい。文章が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような文章が書ければ、文章は生きてくるんじゃないだろうか。」

 

少し前に引用した小林秀雄の話だけれど、これがずっと頭の中で響いている。

 

文章を書くことにたいしてももちろんそうなんだけれど、そのアティチュードは、本買にもあてはまるんじゃないかと思ったりしているのだ。

 

フリージャズのように本を選ぶこと。

 

探していた本が絶好のタイミングで見つかることは、とても気分がよくて、その快感のために、日々本屋を徘徊しているようなものだけど、探しているわけでもないのに、呼ばれたような気がして、思わず手にとってしまう本がある。

 

その磁力はタイトルであったり、ブックデザインであったり、よくわからない気配であったり、まあひとことでいえば、本としての「佇まい」といったようなものなんだけれど、その時その場の磁力だけで本を買ってしまうのもまた格別の趣があって、じつはそれこそが、本買の醍醐味といってもいいかもしれない。

 

なにか目に見えないものに身をまかすことの快感。

 

こちらが選ぶのではなく、本に魅入られて、買うというより買わされてしまうっていう感じ。

 

■  余白は芸術に関係がない ― が、ひとつのフォルムである  オクヤナオミ 水声社 20080810初版

 

著者の名前も聞いたことがないし、出版社もまったく初見、でも呼び込まれてしまった。

 

衒学的なタイトルやその本全体の雰囲気から考えて、てっきり若手の女性アーティストだと思っていたんだけれど、帰ってからググって みたら、じつは1930年生まれの79才、それもパリで長年(1965-1982)暮らしたじいさんだと知ってガゼン興味がでた。

 

草間彌生さんと同世代(!)のアーティストによる、現代美術にかかわるエッセイ集だ。

 

実際の作品を見たわけではないし、ネット上でも作品のアーカイブがほとんどでてこないので、なんとももどかしいんだけれど、この本に掲載されているいくつかの写真や、文章の気配からすると、20世紀初頭のパリで生まれたキュビズム、ダダ、シュアレアリスムといった新しい芸術運動に惹かれ(この世代のアーティストであれば至極ナチュラルなことだろう)、中でもデュシャンとマレーヴィチのコンセプチュアル・アートに痺れた人のようだ。

 

今も昔もパリには、金子光晴が、「すこしおもいあがった、すこし蓮っ葉な、でも、はなやかでいい香いのする薔薇の肌の、いつも小声で鼻歌をうたっている、かあいいおしゃまな町娘と暮らしているような」と喩えた、その街の生活に憧れた日本人の「アーティスト」がたくさん住んでいるんだろうけど、この人もそういうありふれた「パリの日本人」のひとりだったんだろうか。

 

でも、第二の藤田嗣治を夢想するそのほとんどが、フランス語で暮らすことの厳しい現実や、イメージと現実のギャップによるストレス、そしてなによりもそんな街で生計を立てることの難しさに耐えきれず、長くても数年で逃げ帰ってしまうことを思えば、17年、それも60年代後半から70年代80年代に渡る(35-52才)この人のパリ歴には、確固たるリアリティがあるように思える。

 

本は4章の構成

1 余白のなかに余白を問う
2 パリには十年ごとの歴史がある
3 芸術のヒエラルキー/建築、彫刻、絵画、詩、音楽
4 〈方陣の函〉または無限への明晰なアプローチ

 

じつは、書いてあることがよくわからない。

 

「鼻母音、この呪われた響きをオブジェに閉じ込めようとノートをひろげたら、何の関係もない『字余り』という文字を書いてしまった。 『字余り』、このはみだし言葉は、言葉の露出、言葉のエロスだ、はみだし言葉は艶っぽい危険なオブジェである。」 (鼻母音から母音へ)

 

「デュシャンのいう芸術係数、は芸術家が自らの意図を完全に表現しきれないことから生じる隙間である。 芸術家が実現しようと意図したものと、実現されたものの間のズレが、芸術係数を生み、作品をふくらませる。意図されながら表現されなかったこと、意図せずに表現されてしまったことの算術的な関係のようなものである。」
(鼻母音と数供養/マルセルとふたつのアンデパンダン展)

 

「車はいま水溜まりを通過したはずなのに、また前方に姿をあらわすのは、あれは男と女、を逆さにした、女と男の蜃気楼なのか。花嫁と独身者たちの水晶宮の扉 は乾いている。」
(男と女/蜃気楼)

 

「わたしたちは、本質的に「死」あるいは「壊れ易さ」に結びつけられた場所において建築なるものを見ようとする。空間のなかにおける建築ではなく、時間のな かにおける建築を見ようというのだ。」 (もうひとつのシュプレマティズム/エル・リシツキー)

 

「つまり、四次元超立方体が、わたしたちの三次元的世界を横切って行く横断面のすべてを、動いている状態での頭の中に思い描く「テッセラクト」の能力を鍛える やり方である。」
(暗黒の方陣)

 

老練な美術家による言葉のシュルレアリスムか、
マイナーポエットによる難解な美術論なのか、
あるいはただの老人の戯れ言か、

 

書き写してみたら少しはわかるかもしれないとやってみたけど、さっぱりですよ秀雄さん。

 

「解らないことが紙の上で解って来るような文章」ってどうやら至難の業のようです。

 

いずれにしても、ちょっと不充足な気分なんですが。

 

*

 

「コトバノイエの30冊」第3弾のためのセレクションを K さんにお願いした。
K さんはこのコトバノイエを建てていただいた大阪で3代続く老舗、K 工務店の社長さんで、
TV の「大改造!! 劇的ビフォーアフター」に「空間の仕事人」として登場した「匠」でもある。

本選びのセッションも3回目となると、少しは落ち着くかと思っていたが、なんのなんの。
その予想は快く裏切られ、Kさんの大奮闘のおかげで、これまで以上に刺激的なものになった。

いままでにない展開もあり、どのように見ていただくか考え中。

きっと楽しいものになると思いますので、どうぞご期待ください。

 

■ 絵本 小京都の旅      小林泰彦     晶文社    19770430 初版

いつのまにかお兄さんだけじゃなく弟さんにも掴まってしまった、小林兄弟おそるべし!

この人は著書が少ないのが(それでも22あるそうだが)幸いだけど。

この時代(70年代)いわゆる「京都ブーム」や「旅ブーム」というのがあって、それに合わせて地方の「小京都」というコンセプトが生まれた。それは今のような単純な観光マーケティングではなくて、時代の空気として、「京都」というコトバに含まれるフォトジェニックなイメージが、人々の琴線にふれたということじゃないかと思う。

この本に掲載(書き下ろし)されているのは、日本全国15の「小京都(掲載順)」

角館(秋田)/盛岡(岩手)/遠野(岩手)/高山(岐阜)/飯田(長野)/津山(岡山)
三次(広島)/竹原(広島)/津和野(島根)/山口(山口)/伊予大洲(愛媛)土佐中村(高知)
日田(大分)/人吉(熊本)/飫肥おび(宮崎)

このルポから30年が経って、時代に流されてただの地方都市になってしまっているところや、俗っぽい観光地になりさがってしまったところ、そして今もひっそりと魅力的な街並みを守り続けているところもあるんだろうけど、こういった町の様子や街並みのそのときの姿を、30年後に鮮やかに伝えられるのは、泰彦さんの「イラスト・ルポ」という表現のスタイルがもっている独自のメディア性ではないかと思う。

その語り口にはお兄さんと同じ下町の江戸っ子の頑固さや含羞を感じます。

長男である信彦さんのそれ比べると、いささか次男坊的なものではあるのですが。

 

 

■ 古都好日      北条秀司     淡交新社    19641014 初版

こちらは本物の京都 in 昭和37年。

古老の劇作家が綴る滋味深い、そしてちょっと艶っぽい京都の12ヶ月のあれこれ。

1月 にらみ鯛
2月 京冷え日和
3月 比良の八荒
4月 十三詣り
5月 若葉曇り
6月 愛宕雷
7月 丹波太郎
8月 幽霊飴
9月 落し文
10月 夜店の灯
11月 北山時雨
12月 針供養

京都の折々を描く「風情」としか表現しようのない言葉たちが印象的です。

年期の入った作家のエッセイっていうのはどれも巧いなあ。
すらすらと読めて、心に何かが残るんだ。

 

■ 9坪の家       萩原修     廣済堂出版   20001115 第1版第1刷

いい家だ。

家づくりの本は、ほんとうにたくさん出版されていて、「コトバノイエ」を計画しているときにはけっこう買いこんだけれど、大きくいうと建築家が施主(架空の)のために書いているものと、実際に家を建てた施主が書く体験記にわかれていて、この本は典型的な後者のスタイル。

きっかけ、建築家選び、工務店選び、金策、葛藤、プラニング、施工、居住後。

家づくりで誰でもが体験する、様々なドタバタ(初めてのことだし、誰かが教えてくれるわけじゃないからしょうがないんだよね)が、素朴に綴られている。

この本のキモは、名作といわれている増沢洵の「「最小限住宅(自邸)」を、現代的にリ・デザインしたところだろう。

9坪は確かにせまいけれど、2階建てなら吹き抜けをつけても15坪(50m2)あって、親子4人が住めないほどじゃない。そしてじつはそういう余条件が、ギリギリになればなるほど燃えるのが、建築家という人種。

だから9坪ハウスが、いい住宅になるのは、ある意味必然だったともいえる。

ましてこの家はコンセプトがしっかりした建築家の作品がベースなわけだから、デザイナーに小泉誠という人を選んだ時点で、もういい家になることは決まっていたんじゃないかと、冷静に考えればわかるけれど、この玄関もない狭小住宅をいざほんとうにオーダーするとなると、それはいささか勇気のいること(とくに奥方にとっては)だったに違いない。

でもその決断がこうやって一冊の本になったんだから、価値あることでしたね、萩原さん。

 

■ ON PLANET EARTH     ジャン・スタラー    トレヴィル  19971005 初版

写真が「見立て力」だということをあらためて感じさせられた。

彼がこの「惑星地球にて」という写真集で写し撮っているのは、「偶然の配置」だ。

工事現場、工業用地、軍事施設、発電所、浄水場といった人間によって改変された風景は、はたして自然なのか、そうでないのか。

正方形の画面に置かれた人間によって構築された物体のポートレイトは、人工の光と太陽の光が入り混じり、生き物のようなあるいは彫刻のような美しさを見せている。
そしてそれは、はたして自然なのか、そうでないのか。

Landscape (of human altered environments)とでも名づけるべき抽象的光景。

長時間露出と光源の組み合わせという手法が、そういった異星的な印象を際立たせていることは間違いないけれど、いい写真がいつもそうであるように、それは写真家がそのカメラアイで見立てたものを、効果的に伝えるための手段にすぎない。

やはりその眼の力こそが、写真家の資質なのだ。

色彩のトーンにちょっと痺れる、大型の銀塩カメラはやっぱりいいな。

この人のウェブサイト、最高です。
Check it out !
http://www.janstaller.net/

*

 

BOOKS+コトバノイエのブックリスト「絵画や写真についてのあれこれ

 

http://kotobanoie.com