a day in lifeの最近のブログ記事
高村薫の住宅についてのコラム「家のつぶやき」は、予想していた以上に面白かった。
孤高ともいえる女流作家に、住宅のことを書かせた日本経済新聞の編集子のファインプレイだろう。
1200字26話のあちこちに慧眼が光る。
それは最初のコラム「景観」のこんな文章を読むだけではっきりとわかる。
「個々の建物と周辺の建物と自然を含めた〈景観〉という発想は、この国には最初からなかった
に違いない。(略)窓の外に見える風景が、個々人の暮らしの中にある程度のウエートを占める
ようにならなければ、住宅の成熟はなく、街としての〈景観〉が生まれることもない。」
また、かつて暮らした大阪千里にある集合住宅(団地)を論じて、欧米に比べての40年という
その寿命の短さを指摘し、
「メンテナンスの不備ではあるまい。たぶん建造物として、初めから住民が愛着を持つだけの
価値のないものだったことが、老朽化を早めているのだ。」
と見破っているのも、そうとうシャープな批評眼だ。
さすがに2クールにわたる連載の後半でやや息切れの気配があるのが残念だが、なにごとに対しても
真摯にとりくむ彼女の硬派ぶりにはあらためて感心させられるし、ストーリーのあるなしにかかわらず、
ブレることのないしっかりとした視点が、安心して読める文章の基点だということがよくわかる。
ベランダの当惑/年をとらない家/家屋の陰影/閑静な住宅地/マイホーム幻想/エゴを超えて
関西の人だけに、彼女が語るその風景になんとなく親しみを感じます。
/
某日、デザイナーのTさんに本を選んでいただいた。
矢部さんに続く「コトバノイエの30冊」第2弾のためのセレクションをお願いしたのだ。
天気のいい日曜の午後、遅めのランチをとりながらのセッションだったので、はじめはわりと
のんびりした気分だったんだけれど、挑むように本棚に向かうTさんの姿を眺めているうちに、
どんどんテンションがあがってきた。
少しずつ積み上がっていく予想もつかないタイトルを見ているのはとてもスリリングだったし、
選んだ本にまつわるあれやこれやをおうかがいした選後のインタビューもなかなか興味深い
ものだった。
なんであれ本を選ぶというのは自分の何かを晒すことでもあるし、あらかじめひとつのフィルター
をかけられた本棚からのセレクション(しかも冊数まで限定されて)なんてけっこうやっかいな
ことじゃなかったかと(無責任にも)思うけれど、選ばれた本たちのちょっと嬉しそうな佇まいや、
ひとつひとつのメッセージを整理していくうちに、全体の景色がなんとなく浮かんできた。
服のデザインをする人との本を介してのセッションができるなんて思ってもいなかったことだから、
これから作成するウェブページが、快くこちらの申し出を受け真摯に取り組んでいただいたTさん
に喜んでいただけるような、そして見ていただいている方に今感じているこのワクワクした雰囲気
がうまく伝わるようなものになればいいなと、あらためて期する次第。
Be looking forward to it !
でもホント、予想以上に楽しいセッションでした。
/
そしてまた某日、
ディランに続いてマーティン・スコセッシが撮ったストーンズの「 Shine a light 」を観た。
すでにDVDで発売されている映画を、封切りのシネコンで観るというのもちょっと微妙だけれど、
やはり大きなスクリーンで観るのは気持ちいいし、なんといっても音の迫力がちがう。
トレイラーを見ているとタダのコンサート記録のようにも思えたこの作品が、しっかりと練られた
上質の「映画」だったのはちょっと予想外だった。
さすがスコセッシ(ミックやキースと同世代の戦中派だ)、ただでは転ばない。
コンサートは素晴らしいものだった。
キースのテレキャスターの一撃からはじまるオープニングの Jumpin' Jack Flash には、
鳥肌ではなく、一瞬涙がでそうになった。
スコセッシは movie をわかってる。
ミックは camera をわかってる。
キースは rock をわかってる。
ロニーは stones をわかってる。
そしてチャーリーは stones そのものだ。
このスペシャルなコンサートは、わかってる大人たちの移動祝祭日だったようだ。
"のどが渇いたらシャンパンを飲もうぜ、トビたかったら reefer(マリファナ)をキメればいいさ"
なんていう曲( Champagne & Reefer by Muddy Waters) もプレイしていたが彼ら自身は
no dope(シラフ)のステージだった。
ストーンズといえばいつも dope のことが話題になったもんだけれど、今はそういうものからは
完全に解放されたようだ、キースのクリーンな眼を見ればそれがよくわかる。
生き残ったロッカーたち。
彼らがバンドを始めた頃、新しくて反抗的な存在だったロックが、すでに古い音楽スタイル
になっているということは、たぶん彼らもよくわかっている、でもこんな風に人の心を震わせる
ことができるんなら、スタイルなんてなんの意味もないよね。
けっきょくは、Blues の力かなと思う。
最高の一曲は、ミックがとても照れくさそうに「この曲を作った時、恥ずかしくて他人に歌って
もらったんだ(当時の恋人マリアンヌ・フェイスフルに贈った曲でした)」と呟いてはじまる
so sweet な「 As Tears Go By」、キースのメロウで、そして hip なアコースティックの12弦は
シブすぎて、今にもブライアンが降りてきそうだった。
ちなみに2006年の秋にブロードウェイの Beacon Theater という由緒ある劇場で開かれたこの
コンサートは、クリントン元大統領が自らの60才の誕生日を祝して主催したプライベートな(!)
ものだったそうで、もちろんご本人もヒラリー次期米国国務長官も、そして彼女の母親も映画に
登場、そしてこのコンサートのオープニングのMCは、なんとクリントン自身だったのだった。
それにしても、ストーンズには NEW TORK CITY がよく似合う。
*
ここ最近の本買の何冊かを
■ 人間失格 太宰治 筑摩書房 19480725 初版
ダザイの初版、しかも絶筆の「人間失格」と「グッドバイ」とは、ちょっとエキサイティング。
この小説「人間失格」はこの本が発行された年の「展望」の8月号で完結、本人はその6月に
逝ったんだから、その初出誌を見ることはなかったわけだけれど、文学誌の8月号の掲載
作品とその死によって中断された新聞小説が、臼井吉見の追悼あとがきを付して7月25日に
上梓されているそのスピード感は半端じゃない。その死に方がセンセーショナルなものだった
だけに、この本は話題作となり、当時としては大ベストセラーの20万部(おそらく紙を集める
のにそうとう苦労したんじゃないだろうか)を売り切ったそうだ。
今も昔もマスメディアの売れるものへの嗅覚はたくましい。
凡百の例にもれず、若いときに太宰作品のひととおりの洗礼を浴びているけれど、その含羞的
というか露悪的なデカダンよりも、ひとつひとつのフレーズの鮮やかさが心に残っていて、その
言語感覚は、今の世ならコピーライターとしても一家をなしていたのではないかという気がする。
「恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れました
ので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、
上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然
気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにする
ためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思って
いたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜(あかぬ)けのした
遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたの
ですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを
発見して、にわかに興が覚めました。」
ちなみに、英訳でのこの作品タイトルは、「No Longer Human(by Donald Keene)」
なるほど。
■文字とデザイン TYPO-GRAPHICS 中島英樹 誠文堂新光社 20080501 初版
確かにオリジナルフォント「 Nakajima Thin 」は美しい。
そして文字というものにこれほどまで執拗にこだわるデザイナーがいるのはとても心強い。
「日常にある風景写真であろうと、それが文字を感じるのであればタイポグラフィと呼んでいい。
文字の気配がすればそれはもうタイポグラフィである。」
これはもうメタフィジカルな文字表現至上主義といってもいいんじゃないだろうか。
「タイポグラフィ」というものへのモノサシがないので、作品の評価なんてとてもできないけれど、
インタビューで彼が言っている
「大事なのは『気持いいこと』を実現していくことなわけだから、例えばベジタリアンでもまずい食事を
我慢しているならエコじゃないんじゃないか。某大手自動車メーカーがエコを前面に出していますが、
本当の意味でエコを実践しているのは、フェラーリなんじゃないか、とか。なぜなら、フェラーリは捨て
られない車を作っているわけで、ゴミにならない。大量生産・大量消費のエコカーが本当にエコロジー
といえるのかって。」
という考えには大同意。
とにかくデザイナーの要諦は、まずゴミを造らないということでしょう。
ゴミのようなデザインのなんと多いことか。
坂本龍一のCDジャケット、ISSEY MIYAKEの広告、shu uemuraのパッケージなどはこの人の作品。
ジャケットデザインが原点だと彼はいっている。
けっこうROCKな人かも知れません。
■ やきもの談義 白洲正子/加藤唐九郎 駸々堂 19761020 初版
言いたい放題だよ、
"窯ぐれ" 唐九郎(79才)と"韋駄天お正"こと白洲正子(66才)の対談。
「日本人の好み」「信長の魅力」「中国文化の影響」「芸術と恋愛」など、やきものだけでなく古今
東西の美をめぐるダイアローグで、さすがにお二人とも確固たる美意識をもっていらっしゃったことは
よくわかりますが、造る人と見立てる人の違いが最後のところではっきりと浮かび上がってくるのが
この対談のもっとも興味深いところでしょう。
唐九郎さんが、青山二郎のことを仁清のやきものみたいだと喝破しているのは痛快。
でもまあ年寄りは無敵だな。
こういうのを読むと早く年寄り(それも嫌われる年寄り)になりたくなってしまうんだ。
■ 人間人形時代 稲垣足穂 松岡正剛/杉浦康平 工作舎 19750101 初版
足穂の作品集というよりは、松岡/杉浦作品ととらえるべきか。
稲垣足穂という稀有な文学素材、1975年発行の本に1975円という値段、杉浦康平による造本、
本の真ん中に穿たれたTarupholeという7mmの孔(マルコヴィッチの穴みたいだ)、執筆年もテーマ
も違う文章による3部構成。
スーパーエディターを自称するSeigow氏の、おそらく快心の一作ではないかと思いますが、70年代
という時代背景はあるにせよ、too much intention の感は否めません。
あからさまな作為は編集の敵ではないのか。
エディターのコアは、「やりすぎない」ことではないのか。
This production design is not hip.
もちろん足穂翁の作品は文句なし、
とくに幻といわれていた初期作品の「宇宙論入門」が読めるのは素晴らしいのですが。
■ 横尾忠則日記 一米七〇糎のブルース 横尾忠則 新書館 19691215 初版
また買ってしまった横尾本、でもコイツはちょっとスゴイぞ。
「横尾忠則遺作集」という粟津潔編集の作品集を除けば、これが横尾さんの処女文集なのだ。
寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」なんかと共通するこの時期のポップな横尾デザイン。
1962/10/25から1969/11/05までの日記/エッセイ群は、60年代のクロニクルといってもいいでしょう。
横尾さんのアートの原点がここにあります(じつは今もあんまり変わってないように思うけど)。
「今、私がいちばん欲しいものは二糎米である。
あと二糎米で私の身長は一米七〇糎になる。
もし私の身長が一米七〇糎あったなら、私はどんなに大きな自信をもつことができたか知れない。
この本に集められた過去数年のエッセイは、すべて私の願望を表したものばかりである。」
期せずして1969年、初版・検印付きです。
*
小説を読みたいと思った。
年齢のあまり違わない知己の唐突な死や、ステージ4/余命2年と宣告されたという遠縁のことが重なり、
目の前の「死」というものにたいして、たとえば余命を宣告されたその人になにか本を届けようと考えたとき、
それは決して闘病記のようなノンフィクショ ンではなく、小説、それも時代を超えて読みつがれてきた
古典といわれる作品じゃないかと思ったからだ。
リアルな死を前にすると、ひょっとしたら「祈り」ってやつが唯一の救いなのかもしれないけれど、
「阿弥陀仏」や「Amen」ではなく、クラシックとよばれている文学作品(=本)や音楽や絵画といった、
人が表現したものの中にこそ、生きることをポジティブに感じさせるパワーがあると、信じたい。
とはいうものの、あらためてそれが何なんだと考えると、正直なところよくわからない。
わからないままに本棚をさまよい、このタイトルにいきあたった。
■ 何を見ても何かを思い出す アーネスト・ヘミングウェイ 新潮社 19930910 1刷
― I guess everything reminds you of something
それはほんの10分足らずで読みきれるスケッチのような掌編で、息子の小さな裏切りのエピソードを
シンプルな文体で綴ったモノローグだけれど、ひとの心のなかに否応なしに去来する空白(void)を
過不足なく、しかも繊細に描ききっていて、上質の文学だけがもっている抽象力があった。
一読するとそれは苦い記憶の物語のように思えるけれど、読み終えてしばらくたつと、
ヘミングウェイが巧妙に、愛するものの不在(=死)というテーマを潜ませていることに気づく。
remind = re-mind
思い出させるこころ。
すべてのものがあなたに何かを思い起こさせる。
こうやって書きながら気づいたことだけど、死とは「ここにいない」ということだ。
あたりまえのように在ったものがある日突然どこかに消えてしまったとき、
遺されたすべてのものが、何かを思い起こさせる。
残されたものは、遺されたものによって、あなたが「ここにいない」ことに気づく。
そう考えると「ここにいない」ことは、それほど淋しいことじゃないのかもしれない。
if something of me reminds you of something once in a while,
それが旅であろうと、死であろうと
Memento mori
*
■ Abstract Reality デニス・ホッパー 光琳社出版 19980903 初版
デニス・ホッパーが写真集をだしてるなんて知らなかった。
「抽象的現実」、立体を映しているのに絵画のように平面的な写真たち。
Nikon28mmによる見立て。
まるで抽象画のような60葉の写真を、ホッパーは「禅のタブレット」といっている。
サービス精神の旺盛な役者のことだから、それはおそらく日本版に向けたメッセージだろうけれど、
静謐ともいえるその画像には、表現者としての自信のようなものが見てとれる。
撮ることも撮られることも同じアートなんだよ、なんて嘯いていそうだ。
できれば実物のその「tablet」を、オリジナルサイズの 14 x 9 inches で見てみたい。
多才。
■ 半眼訥訥 高村薫 文藝春秋 20000230 第1刷
笑わない人高村薫初のコラム集。
まだぜんぶ読んだわけじゃないけれど、目次を眺めているだけでちょっとウレシくなった。
文庫化にあたっての大改稿の秘密。
「家のつぶやき」というタイトルで一章を割かれた住宅論。
わたくしのなかの大阪と題する大阪弁論。
ルポルタージュ、そしてブラームスについて語ったエッセイ。
小説という緊張感のある舞台からこぼれ落ちた高村さんの「素」が垣間見えそうで。
読めば止まらなくなる、たぶん。
硬派。
■ 輝く日の宮 丸谷才一 講談社 20030610 第1刷
日本語の人の日本小説、2003年の朝日賞・泉鏡花賞受賞作。
「輝く日の宮」というのは、源氏物語の「桐壺」と「帚木」の間の失われた幻の一帖だそうです。
この本では女性国文学者を狂言まわしにして、源氏物語はもちろん、古今集、芭蕉、武蔵、学会など
日本文学や日本にまつわる様々な考察があり、あげく最後の章ではこの幻の一帖を自らが書き加えて
しまうところまで白熱、また、この本の7章のすべてを異なる形式、文体で描くという超絶技巧も見どころ
(読みどころ)のひとつでしょう。
エッセイであれ書評であれ小説であれ、よく推敲されたこの人の語り口には、成熟した大人の味わい
のようなものを感じます。
やはり文体こそが文章家の命なのかな。
軽みのあるエッセイが、個人的には好みです。
円熟。
■ 傷みのシャンデリア 草間彌生 ペヨトル工房 19890110 初版
79才現役、75才のヨーコ・オノとはきっと仲が良くないだろう。
貌はひたすらこわい、岡本太郎クラスの眼力。
実際の作品は直島の黄色い水玉カボチャ「南瓜」くらいしか観たことはありませんが、その印象は鮮烈。
モチーフによく使われる網の目や水玉の集合は、子供の頃から日常的に見えるものだったということ
ですから、なにか違うものが視えている異形の人としかいいようがありません。
「赤や緑や黄の水玉模様は地球のマルでも太陽のマルでも月のマルでもいい。形式や意味づけは
どうでもいいのである。人体に水玉模様をえがくことによって、その人は自己を消滅し、宇宙の自然に
かえるのだ。」
ペヨーテが由来というインディ出版社から発刊されたこの小説、気配からするとSMをモチーフにした
pornographic なラブ・ストーリー、「昔、ボニー&クライド。いま、ギンコ&トミー」なんていう
いかにも80年代的なコピーが帯にありますが、もちろんご本人や小説の内容とは関係ありません。
異才。
*
朝から蝉が五月蝿い。
暑さのせいで、ふだんはそれほど気にならないことに不機嫌の虫が騒ぎだす。
3車線の真ん中をとろとろ走っている軽自動車、運転しているのはオバサン。
オバサンはひたすら前方を見つめていて、自分が流れを澱ませていることには気づいていない。
一番左のレーンを走ると路上駐車の車があって、その車をかわすには右後方から走ってくる車
を確かめながら、いったん車線変更してもとのレーンに戻るという、やや難易度の高い動作を
しなければならないから、それがヤダという気持ちもわからなくはないけど、だからといって、
堂々と真ん中のレーンをゆっくり走られるのは、その後ろの車にすれば迷惑この上ない。
周りのこともぜんぜん見えてないけれど、じつはそんな自分の姿も全く見えていない。
これってマナーの問題というよりも、「無意識過剰」とでも呼ぶべき病理なんじゃないのか。
窓から火のついた煙草を平気で捨てるガキ、ウィンカーも出さずに割り込んでくるイラチオヤジ。
絶対的安全運転しかしない教条もみじマーク、意味のない信号、まっすぐ走ってると自然に右折
レーンに流されてしまう陰険なホワイトライン。
If I had a hammer, I'd hammer on nasty traffic.
文字が汚すぎるぞ windows 。
ほぼ毎日 windows XP のマシンと OSX leopard を使っている。
たいした作業をしているわけじゃないから、操作性や全体のインターフェイスは、まあなんとか
我慢できる範囲だと思うんだけれど、フォントの汚さはちょっと耐えがたい。
書く気しないもん、仕事じゃなきゃ。
アップルのジョブスが、大学をドロップアウトして、書法(calligraphy)のクラスを聴講して
いたことが、Mac のフォントがきれいな理由のひとつで、ジョブス自身も、こういっている。
「もしも,私が大学であのたった一つのコースに巡り合っていなかったら,マックは複数の書体
やプロポーショナルフォントを搭載していなかったでしょう。そして,ウインドウズはマックを
ただ単にそっくり真似ただけですから,おそらく,どのパソコンも複数の書体やプロポーショナ
ルフォントを搭載していなかったことになるでしょう。」
フォントなんていうのは GUI の基本中の基本で、極端なことをいうと、書くものの内容さえそれ
で変わるといってもいいくらい重要なものだし、技術的に決して難しいものじゃないはずだから、
OS にきれいなフォントを採用しないのは、単純にセンスの違いっていうことだけじゃなく、イン
ターフェイスやOSに対する考え方、さらにはパーソナル・コンピュータというツールの捉え方の
方向が違ってるとしか思えない。
要するに判ればいいじゃん、文字なんて、といった効率主義。
それってやっぱりHIPじゃないよね。
If I had a hammer, I'd hammer on Microsoft.
兵馬俑を掘り出してきたのかと、一瞬思った。
オープニングの光のアレンジがちょっと新鮮だったので思わず見入って、けっきょく最後まで
見せられてしまった開会式のセレモニーだったけれど、あれだけデジタル的な表現が、すべて
人民の手で行われるって、中国らしいといえばそうだけど、ちょっと気味悪くありません?
北朝鮮のマスゲームみたいだし、一人はただの1ピクセルといわれてるようで。
そこにいたるまでどれほどの強制があり、どれほどの自由が奪われてきたのか。
「他人の空似」というのは浅田次郎さんの言葉だけれど、中国人とアメリカ人がなんとなく
似てるって感じることが、確かにある。
基本的に大雑把、大きいものと派手なものだけを美しいと信じる感性、成り上がりを賛美し、
金持ちが正義と唱える拝金主義、そして自分の国が世界の中心だと盲信しているところ。
遠い過去には中国に朝貢し、今は親分アメリカの代貸しをつとめる日本からすると、このよく
似た2つの国柄が、ロシアのように陰険でなかったことを喜ぶべきかもしれないと、新たな
戦争のニュースを聞いて、ふと思う。
anyway, If I had a hammer, I'd hammer on olympic in China.
この他にも、自分大好きブログのことや、面白くない漫才、出ない携帯電話なんていう不機嫌
の元はあるんですが、汗をかきながらこれを書いていることさえ気に入らなくなってきたので、
今日はこれくらいにしといたる。
*
際立った掘り出しものがなかったせいか、初見の著者の本が集ってきた。
もちろんアタリもハズレもあるんだろうけど(内心かなりの確率でハズレじゃないと思ってる
んですが)、こうやってバリエーションが増えることは悪いことじゃない。
こういう新しい世界の本を読まないで手離すのはもったいないから、がんばって読もうっと。
■ 体の中の美術館 布施英利 筑摩書房 20080620 第1刷
この本のことも、著者のこともぜんぜん知らなかったけれど,「カン」で。
すばる望遠鏡や重森三玲の庭やイサム・ノグチの石肌やヘンリー・ムーアの彫刻やコルビュジェ
のサヴォア邸や藤森照信の高過庵やバリー・ボンズを、ひとつのコンセプトで語った本が面白く
ないわけがないと思います。
「芸術はどこで生まれるか? ヒトの体で。それがこの本のテーマだ。」
「人は、目と脳と、そして体で見る。」
ゲルハルト・リヒターの「髑髏」をあしらったジャケットも秀逸です。
■ 道化的世界 山口昌男 筑摩書房 19750630 初版第1刷
これはジャケ買い、奥付を見たら平野甲賀装丁でした。
何ヶ月も前から気になっていた一冊だけでど、なかなか手にとるところまで至らず。
こういう場合たいていは他の誰かがもっていってしまうものですが、このタイミングで本棚に
入ってくるのはなにか「縁」があったというべきでしょう。
いわゆる文化人類学、その文脈での道化とはトリックスターのことで、もちろん肯定的な評価。
「道化は硬直化した秩序のいたるところに軽快な身振りで登場し、脱臼作用(=イタズラ)を
仕掛けてまわる----- さまざまな現実のレヴェルをダイナミックに捉えてゆく感受性や方法論を
鍛えるためにこそ、〈道化〉的知のモデルが求められている。」
あまりよく解ってるわけじゃありませんが、トリックスターが極めて知的な存在であることは
明白で、モラルや規範を飛び越える(これを革命ともいいます)ためにはそういう常人の域を
はみだす存在が、「道化(はぐらかし)」ることが、ひとつのポイントかもしれません。
■ 十一面観音巡礼 白洲正子 新潮社 19801020 八刷
数ある白州正子の著作の中でも「かくれ里」と並ぶ名著だと思います。
青山二郎さんに「韋駄天お正」と名づけられたあだ名さながら、フットワーク軽く各地の仏像
を巡り、自身がもっとも愛する十一面観音を滋味深く語ったこの本には、文筆家としての白洲
さんのすべてがあるといっても過言じゃないでしょう。
彼女の古典に対する教養と、工芸や骨董をとおして得た審美眼で見つめた「日本と日本人」が、
仏像を軸に、随筆という柔らかい形式で綴られているところにこのひとの唯一無二を感じます。
■ 入浴の女王 杉浦日向子 講談社 19950920 第1刷
2005年に若くして亡くなった女流漫画家・江戸風俗研究家の銭湯めぐり。
あの荒俣宏さんの元妻であったことを wiki ではじめて知りました。
名前はもちろん知っていましたが、この人の本を買うのは初めてで、タイトルと、それに呼応
するようなご本人の手になるジャケットのイラストのなまめかしさに惹かれておもわずレジへ。
「舞妓さんの、おっぱい。」、こんな書きだしではじまる銭湯巡りはやはりチャーミング。
大阪では生野区「源ヶ橋温泉」が登場しています。
風呂好きとしては、かなりそそられる題材ではあります。
インテリアデザイナーという職種がある、日本ではあまり見かけないけれど。
アメリカのアッパーミドルの人たちが新しく家を建てたり、少しステップアップしたエリアに
家を買ったり(住宅を建築するのはアメリカではひどく高いのでこっちのほうが多い)した
とき、お約束のようにこのインテリアデザイナーを雇うことになっている。
アメリカは、「成りあがり(upstart)」がポジティブに許容される社会だから、自分の生活
環境を快適にするためにデザイナーを専属にすることが、ひとつのステイタスと考えら
れているし、社会生活の場で忙しい役職に就いていることの象徴だったりもする。
インテリアデザイナーは、建築家と同じように住み手となるそういう人たちの依頼をうけて
(日本での家造りと同じようにクライアント側の窓口になるのは奥様であることが多い)、
インテリアのコンセプトを練り、全体のテイストや基調色を決め、部屋ごとにカーペットや
壁紙やドレープを選び、それぞれの部屋に置く家具や絵画をコーディネイトし、そして
アメリカ人が大好きな壁いっぱいに飾る家族写真の額縁とその場所を決める。
新しい住居のインテリアパーツを考えることは楽しい作業ではあるけれど、それをトータ
ルにコーディネイトするのはなかなかやっかいなことで、予算的なことも含めてそれなり
の知識や経験やセンスがないとなかなかうまく収まってくれないし、建築のコンセプトと
も密接にかかわってくることだから、その仕事はきわめてプロフェッショナルなものだ。
そしてそういう職能を持ったプロが住まい造りにかかわることで、その全体がすんなりと
まとまるようになっている。
組織に属さずたいていがフリーとして独立しているインテリアデザイナーたちは、スタイリ
ストのようにトレンドに目を凝らし、自分だけのショップリストやアーティストのネットワーク
を持っているし、そういったプロのためのショールームが集まったファシリティーが大きな
都市には必ずある。
日本にも80年代に、インテリア・コーディネーターという資格ができて、実際にその資格を
持った人たちが何人もいるわけだけれど、店舗や建売住宅やマンションのモデルルーム
などのスタイリングをすることはあっても、 個人的に住宅のインテリアのプランを依頼され
るなんていうことは、あるんだろうか。
想像できます?
自分が家を建るときに、建築家とは別にインテリアのプロを頼む(=Feeを払う)なんて。
でもやっぱりそれが問題。
それっていうのは、デザイナーを雇わないことじゃなく、たとえば住宅のインテリアに代表
される個人的な生活の領域で、プロでしか持ち得ないソフトになんらかの価値を見いだして、
生活の向上を図っていくという合理的なプログラムが、ごくあたりまえの方法論として存在
していないこと。
たとえば弁護士や設計士は、難関といわれている国家資格のライセンス制度があること
で、そのソフトワークにたいする Fee の支払いが、社会的に認知されているけれど、デザ
イナーやコーディネーターと呼ばれる人たちの Fee は、たとえ相手が企業であっても驚く
ほど認知度が低く、往々にして物流マージンや作業料に転化されてしまうというのが実態
で、まして個人に対するインテリアのプラニングなんて、まずニーズがないということかも
しれないけれど、そういう仕事を志向している人がいるかどうかさえアヤシイ。
住宅のことで言うと、壁紙やファブリックだけでなく、照明器具や家電製品のセレクション、
水栓やレンジといった設備機器のチョイス、インテリアグリーンのコーディネーション、こう
いったことを建築家から奪えるようなインテリアデザイナーが現れたら面白いんだけどな。
そんなことを考えたのは、ある人に本のセレクションを頼まれたからだ。
10日間ほどの休暇で南の島に行くんだけれどそのときに読む本を何冊か、というような
要望で、もちろん知り合いからのものだから、彼のライフスタイルや旅のシーンを想像し
ながら、ああでもないこうでもないと本を選ぶのは、とても難しくて、そしてとても楽しい
作業だった。
何ヶ月か前に本を売らない本屋、「本のStylist」を考えているという記事をエントリーした
ことがあったけれど、そのときにはやはり企業やショップのことだけしか頭になくて、個人
の本棚や旅にもっていく本なんていうシチュエーションを考えもしなかったんだ。
でもふとインテリア・デコレーターのことを思い出したら、個人や特定のシーンのための本
のセレクションなんていうビジネスモデルもあり得るんじゃないかと妄想してしまったわけ。
まあでもそれで Fee をもらうなんて、10年早いね。
*
■ 茶室とインテリア 内田繁 工作舎 20050920 初版
座――脱ぐ文化、座る文化
間――柔らかな仕切り
風――涼味の演出
水――浄と不浄
火――炎の記憶
飾――空間の物語
祀――祈りと季節
色――彩りの力
心――住まいの将来
こうやって見出しを並べただけでも、この本の切り口が感じとれそうです。
茶室に代表される日本の空間文化を、インテリアを軸にわかりやすく解説したもので、
本はもちろん美しく、内容もさすがにしっかりしていてソツはないのですが、きわめて
感覚的な領域のことを、「わかりやすく」解説する必要があるんだろうかと思っていたら
桑沢デザイン塾の講義録がベースとわかってちょっと納得、プロを目指す学生諸君には
これくらいでちょういいのかもしれません。
■ 鞆ノ津茶会記 井伏鱒二 福武書店 19860401 第2刷
安土桃山期の茶会をフィクション(架空)で描くとは、恐るべき想像力、そして文章力。
太宰治や開高健といった手練の作家たちが私淑した人だから、昭和文壇の巨人の一人でしょう。
コノ杯ヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミ注ガシテオクレ
花ニ嵐ノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
酒と釣りの名人、そして東宝映画「駅前シリーズ」の原作者でもあります。
■20世紀ボックス 木村勝編著 六曜社 19980630 初版
表紙のデザインを見れば一目瞭然だけれど、タイトルは真木準によるパロディ。
日本を中心とした20世紀初頭からのパッケージやラベルが、日本のパッケージデザイナー
の先駆者木村勝さんのセレクションで掲載されています。
パッケージを語ることは、広告そのものを語ることでもあります。
この本の中で、とあるデザイナーが、「卵」こそがパーフェクトなパッケージ(殻や薄皮や
カラザや白身など、すべての要素が生命の源である卵黄を守るために有機的に連動し
ているそのシステムやフォルム)だといっていたのが印象的でした。
■ ラハイナまで来た理由 片岡義男 同文書院 20000304 初版第1刷
same old story だということはわかっているけれど、ついタイトルに魅かれてしまった。
ハワイから届いた絵葉書のような28の掌編。
どれも僕が主語だし、マイナーな出版社だったので、最初エッセイ集と勘違いしていました。
35年以上慣れ親しんだこの人でしかあり得ない文体や、変わることのない乾いた視線は
絶えることのない波の音を聴いているようで、安心感が高いのです。
■ 生きているのはひまつぶし 深沢七郎 光文社 20050730 初版第1刷
「ひつまぶし」ではありません。
87年に亡くなった深沢さんの18年ぶりの単行本だとか
「楢山節考」はそうとう凄いし(今は日本中が「楢山」になってしまったみたいだけれど)、その
存在感に、ただならぬ気配をビシビシ感じるので、こうやってこの人の本を買うわけですが、
赤瀬川原平や嵐山光三郎や白石かず子といった曲者たちが私淑する深沢さんのほんとうの
凄さは、実はあまりよくわかっていません。
このエッセイ集を眺めていても、マニアックなローカル・スターではなく、もう少し大きな人類
的なスケールの人ではないかと思いますが、まだ眼をつぶって象を撫でているような感じ。
読み込めばもう少し大きいものが見えてくるような気がします。
