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なんとなく、コルビュジエじゃなく、ライトだと感じている。
積み上げた石にコンクリートを流した構造体、キャンバス張りのフレームを、木造のトラス
に嵌め込んだ、まるでテントのような屋根、室内に溢れる半外的な太陽の光、タリアセン・
ウェストのコンセプトは、限りなく今的だし、有機的建築 (organic architecture) という
タームも、マーケティングと してはオン・タイムだろう。
シンプルな箱も悪くはないけれど、もうちょっと暖かいものがほしいなあといった気分か。
ライトの建築は、ふだんに見直され、ふだんに見棄てられる運命にある。それは、
生命としての人間の根っこをライトはあけっぴろげなまでのしつこさで、ひっつかまえて
いるからだ。 時代の流れに見合った新しい様式の登場で、しぶしぶライトは退場するが、
すぐまた顔を出してくる。新傾向が、たちまち息詰って、くたびれ、あきられてしまうから
である。ゲーテの『ファウスト』の言葉でいえば、「わたしたちが霊の言葉をささやくと、
あなたが来て、そのとおりのものを見せてくれる」のがライトの建築である。
帯にこんなことが書いてある本に出会った。
同じような想いをもっている人がいる。
ただその「有機的建築」ってやつがどうもわかりにくいのだ。
□ フランク・ロイド・ライトの呪術空間 草森紳一 フィルム・アート社 20090725初版
草森紳一は、「あの猿を見よ - 江戸佯狂伝」や「見立て狂い」という本を前に紹介したが、
そもそも「江戸のデザイン」や「穴」なんていうマイナーなテーマの本で注目された人だけ
あって、こういうちょっとへんなトピックに関しては嗅覚が鋭い。
ともかく蔵書4万冊という博覧強記の人である。
もともとは「書ける建築家」磯崎新さんにそそのかされてはじまったという、建築雑誌「SD」
での連載だそうだが、この人のアプローチは、対象に向かって真っ直ぐに切り込むといった
ものではなく、好奇心のおもむくままに、あっちへフラフラ、こっちにフラフラというような酔拳
スタイルだから、読み終えるのには難渋した。
本は、1974年にライト・ツアーで訪れた、オクラホマでの話から、そっと始まる。
そして間をおかず、岡倉天心と老子を引用し、「茶の本」を初めて読んだライトのことへと、
彼のイマジネーションが走る。
内部空間( inner space )こそ建物の実体( reality ) であるという考え方を自分の発見だと
思いこんでいた自信家ライトが衝撃を受けたという、天心の「茶の本」にある老子の言葉。
部屋のリアリティは、屋根や壁で閉じられたスペースにこそあって、屋根や壁それ自体に
あるわけではない。THE REALITY OF THE BUILDING DOES NOT CONSIST IN ROOF AND WALLS
BUT IN THE SPACE WITHIN TO BE LIVED IN .
タリアセン・ウエストの「趣味の悪いパウンドケーキのような気味合いの」壁に、ライトの自筆
で刻印されたその言葉とのシンクロニシティー。
彼は、こういうことを発掘しながら、ライトの言う「有機的建築」が、老子的あるいは道教的
(=呪術的)なものと密接にリンクしているのではないかという、仮説を導き出す。
草森紳一的「見立て」。
そんなライトの建築への批評的考察の合間に、カウフマン邸(落水荘)やスタンフォードの
ハナ邸など実作品の訪問記が貫入され、ソローやエマーソンや夢野久作などを、それぞれ
の空間の解釈に引用しながら、考察の間口を拡げる。もちろん「有機建築の魔法」というの
が底を流れるテーマだから、そのポイントを大きく外すことはないのだけれど、振幅の巾が、
こちらのキャパシティーよりはるかに大きくて、ともすれば酩酊状態に陥ってしまう。
2日ほどかけて、この本を読むうちに(それも行きつ戻りつ)何回かそんな状態になった。
いつものように寝転んで読んでいると、そのうち頭がクラクラになり、何を読んでいるのか
わからなくなって、気絶するように眠りに落ちてしまうのだ。
この本こそが、迷宮じゃないのかという気になってくる。
草森さんも述べているけれど、そもそも「organic」の訳語としての「有機」っていう言葉
自体がなんとなくしっくりこない。そしてそこに建築が加わるともっとわからない。
本棚にあるライトの作品の写真やドローイングを見ていても、そしてこの草森ライト論を
読めばなおさら、ああこれがそうなんだ、という焦点の合ったイメージにたどり着かない。
有機的建築とは、外からあてがわれた形態に合わせて造られるようなものではない。
その建築が必要とする全ての要素が調和し、内から外へと発展していく建築である。
ライト自らは、このように説明しているけれど、これって今盛んに言われている「自然と
共存する」なんていう単純な話ではなくて、人間が造った建築そのものを有機体と認識
しようという話、もっといえば、スタイルではなく、スピリットの話なんじゃないだろうか。
それは難解なからではない。やさしすぎる位だ。自然、単純、完一、そして自由と個性
がキーワードで、それが<有機>なるものによって総括される。・・それらを理解するのに、
困難はないが、問題なのは、このわかるということが、ほとんど無意味なのである。
ライトのキーワード、<自由>にしても<自然>にしても、ましてや<有機>は魔術書の
常套句であり、この言葉を理解したところで、たちどころに有機建築を地上に打ち立てる
わけにいかない。機械技術者、数学者、医師、錬金術師、詩人、音楽家、建築家が、
かつてしばしば呪術師でもあったのは、<自然>にかかわり合うのを業としたからである。
相伝できない秘伝、ということか。
理解できるがわからないことって、けっきょくは、魔法のようなものだ。
禅的公案 : 庭は、どこで終わり、家はどこからはじまるのか ( by F.L.Wright )
10匹の猫がひとつの家に飼われていれば、お互いに適度な距離感をもって暮らす。
たとえば、庭でその一匹一匹が昼寝をするときの、、その絶妙な配置感を、道教的には
「安排」というらしい。
「現在は移動する無窮である。相対性の合法な活動範囲である。相対性は安排を
求める。安排は術である。」
「安排」とは、つまり官能(有機)のデザインのことだ。
そして、さらに彼はアメリカで信号待ちをしている人たちの配置にもその玄妙を感じ、
おそらく、これは、彼らの個人主義の力のせいではないだろうか。ライトの信奉する
個人主義は、相対性に根ざしているので、無意識なまでの個々の位置どりが全体と
して見る時、絶妙な安排を作りだす。日本人がだらだらぐずぐずした不細工な安排で
群がるの は、おそらく依存心強く<自分>というものが欠けているからだろう。・・・
このことは日本の現代住宅にも、かたちとなってはねかえっている。だから、そこに
有機性はない。
と付け加える。
「有機」の円環が、こんなところで閉じた。
巻末で写真家の大倉舜二さんが、献じている「追悼文的・跋<ライト・ツアー>」という
文章が、切なくて、甘くて、とてもいい。
*
秋の本買記
意図したわけではないが、なぜか文学系の人の本が集まってきた。
なりゆきまかせでも、傾向がでてくるのが面白い。
季節の加減か、気分の加減か、あるいは、そのとき読んでる本の流れかもしれない。
□ もの思う葦 太宰治 大和書房 19640420 初版
均一棚で発掘した太宰の文庫サイズの函入りハードカバー、中身は濃い。
けれども、私は、信じている。この短編集、「晩年」は、年々歳々、いよいよ色濃く、
君の眼に、きみの胸に浸透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を
創るためにのみ生まれた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。
太宰にしか書けないアフォリズム
広告のコピーなら秀逸、マジならちょっと痛いが、間違いなく前者だろう。
解説を書いている亀井勝一郎は、この「感想集」をこのように評している。
どの一篇をとってみても、筆致は瀟洒であり、小説と同じような「軽み」がある。
この独自の文体は、太宰文学全体に通ずる大きな魅力といっていいだろう。
これは天分という以外にない。
太宰のこんな散文集は、見たことがない。
□ グスコーブドリの伝記 復刻版 宮沢賢治 ほるぷ出版 1974120 初版
グスコーブドリってなんなんだ、いったいどこで切ればいいんだ。
ペンネンネンネンネン・ネネムとグスコーブドリはどんな関係なんだ。
そしてこのムパタみたいにプリミティブな挿絵はなんなんだ。
宮沢賢治さすがのインパクト。
グスコー・ブドリは、賢治のユートピア「イーハトーヴォ」の森で生まれた、木樵の仔。
父はグスコー・ナドリ、妹はネリ、母はただ「お母さん」だ。
巻頭に、「雨ニモマケズ」、そして8篇の童話。
・北守将軍と三人兄弟の医者
・祭の晩
・ざしき童子の話
・よだかの星
・注文の多い料理店
・鳥の北斗七星
・雁の童子
・グスコーブドリの伝記
装丁・挿絵 横井弘三
「グスコーブドリの伝記」にあらわれた彼のユートピア理念のひとつは、自然は人工的に
作れること、さらにいえば自然よりも優れた自然が人工的に造成されうるということだった。
(吉本隆明「ハイ・イメージ論Ⅰ」)
これって、ライトの「有機」とかなり近い概念じゃないんだろうか。
□ 孔雀の舌 開高健 文藝春秋 19910405 第10刷
小説ももちろんだが、この人のエッセイの味わいはまた格別。
「全ノンフィクション」と題された叢書、この第四巻は、「酒と食」がそのテーマだ。
舌の上の一瞬はモラルや信仰や信念やイデオロギーのはるか彼岸にある、非情なまでの
自由にみたされた一瞥の領域だが、一瞥しかできないのにたちまち全身を占められ、しかも
つぎの瞬間には容赦なく去られ、捨てられてしまうのだから、文学は食物と女だと喝破した
定言は古いものだけれど、やはり痛烈である。このうつろいやすい一瞬をこれまたうつろい
やすい文字とらえようとする技の至難。
語彙の豊穣、緻密に練り上げられた文体。
この人の文章を読むたびに、日本語という言語の豊かさを、あらためて気づかされる。
どういう修練をすれば、こんな文章が書けるようになるのだろうか。
作家の凄さ。
□ ああでもなくこうでもなく 5 橋本治 マドラ出版 20061226 第1刷
今は亡き雑誌「広告批評」連載の橋本クロニクル。
この巻頭時評コラムは、1997年1月号から、「広告批評」が休刊する2009年4月号まで
10年以上にわたって続けられ、計6冊の単行本になった。
「このストレスな社会!」という副題をもったこの5冊目は、2004年春から2006年秋までの
2年半、ライブドアや郵政民営化や耐震偽装の時代をまとめたものだ。
この本を書いた「集中している当人」は、「これは誰にでも分かる当たり前のことだ」と
信じきっていますが、そう思っているのは当人だけで、この本は決して「分かりやすい本」
なんかじゃありません。月に一度の「火事場のバカ力」が可能にした、とてもヘヴィな本です。
相変わらずの橋本節、ひたすら「自分の頭で考えたこと」を、彼だけの理路で語る。
言葉は少しも難しくはないし、読んでいる時はすごく腑に落ちるのに、読み終わってみると
なんとなくスッと、その理解が霧散する。 けっきょくは、「自分のことは自分の頭で考えるしか
ないんだよ」としか言っていないような気がしてしようがない。
そして、そのようにして、この人の本を読み続けることになってしまうのだ。
□ MAGGY CASSIDY a love story Jack Kerouac AVON 1959
□ SOUL on Ice Eldridge Cleaver RAMPARTS BOOKS 1978
□ Nineteen Eighty-four George Orwell PENGUIN BOOK 19710129
最近ちょっとクセになっている均一棚からのペーパーバック3冊。
ケルアックの本は、副題のとおり初恋の物語らしい。
Cassidyというその恋人の名前が、「路上」の主人公のモデルといわれている Neil Cassady と
ひょっとしたら関係があるのかもしれないと思ったり。
"Soul on Ice" は、「氷の上の魂」というタイトルで本棚にある。
ブラック・パンサーの情報相が書いた、犯罪と革命にかかわるエッセイ。
「書ける」黒人活動家の 60's の話。
"Nineteen Eighty-four 1984 " は、1949年に発表されたSF未来小説。
核戦争後の世界、「Big Brother」は率いる「党(Party)」のスローガンは、
WAR IS PEACE (戦争は平和である)
FREEDOM IS SLAVERY(自由は屈従である )
IGNORANCE IS STRENGTH (無知は力である)
これが、どうのように村上春樹「 1Q84 」とリンクしているのかは、あまりよくわかりません。
□ 母の庭を探して アリス・ウォーカー 東京書籍 19920707第1刷
□ スタジアムは君を忘れない マイク・ルピカ 東京書籍 19920604第1刷
□ 人生はワールドシリーズ トマス・ボスウェル 東京書籍 19941104第1刷
東京書籍のアメリカン・コラムニスト全集3冊追加、残りはあと6冊。
ここから先が、ちょっと難しそうだ。
□ 日本の庭 立原正秋 新潮社 19770425 初版
□ モダン・ジャズの発展 植草甚一 スイング・ジャーナル社 19770325第15版
「日本の庭」は、既読「買い直し」
日本美に造詣の深い作家による庭紀行は、常に本棚においておきたい一冊。
庭の本はたくさんあるが、文章の美しいものはそれほど多くない。
植草ジャズ本は、ハードカバーを持っているが、このソフトカバー版ははじめて見た。
体裁からみるとおそらくこちらがオリジナル。
それにしても、この本が15版とは。
*
SPOT LIGHT 企画、「 his master's choice - BOOKS+コトバノイエ 晶文社の30冊 」公開中。
http://kotobanoie.com/
秋日好天。
J.J.氏じゃないけれど、散歩していると思わぬ lucky にめぐり逢うことがある。
hhstyle というインテリア・ショップで、ルイス・バラガンの作品集を手に入れた。
それも 300 x 300mmの大型本を破格のバーゲンプライスで。
■ ルイスバラガンの建築 斎藤裕 TOTO出版 20010701 第2版第2刷
まずその鮮烈な色彩に、そして絶妙に計画された光と影に惹かれる、おそらく風もそよいでる。
でもじっとそのたたずまいを眺めていると、ただならぬ「奥行き」に気づく。
バラガンの建築は、祈りに近い。
リビングにあるプールの陰影が異彩を放つヒラルディ邸 (Casa Gilardi)のフォトジェニックな空間
構成も素晴らしいけれど、なんといっても、86歳で亡くなるまでの40年という時を過ごし、今は世界
遺産にもなっているその自邸 la casa luis barragan は、珠玉とでもいうべき作品だ。
大きな格子状の高窓から射し込む柔らかな朝の光に包まれる書斎。
庭の木々を通してフルスケールのガラス窓から変化に富んだ西陽が降りそそぐリビングルーム。
すべて庭に向き、庭が最も美しく感じられる位置に窓が切り取られた寝室やダイニング。
周囲の喧噪や視線を彫刻的な壁で遮断し、空と自分だけが向かい合える屋上のテラス。
メキシコの強い太陽を受けて、荒々しく生い茂る境界のない庭。
どのスペースも、ひたすら独り静かに暮らすことへの願いに満ちていて、家族の気配を微塵も
感じないストイックな空間なのに、厳しさではなく、穏やかさを感じるのがとても不思議だ。
「そこに身を置くと静寂のなかで生きる喜びを心から実感できる」 (by 安藤忠雄)
ひたすらserenity(静謐)を希求し続けたバラガンの魂が、たぶんそこにある。
そして階段。
オブジェのように美しい階段。
どうしてこんなに心が震えるような階段が造れるんだろう。
敬虔な光にあふれる玄関ホールのゆるやかな溶岩の階段は、天へのきざはしとしか思えない。
書斎のキャンティレバーは、中空に浮かぶ不思議な乗りもののようだ。
この自邸だけじゃなく、この本に掲載されている建築のどの階段も、なんの変哲もないものばかり
なのに、まわりの光や色や空気感をとりこんで、原初からそこにあるような佇まいをもっている。
バラガンの階段だけを切とっていつまでも眺めていたいとさえ思う。
バラガンは、architect's architect だ。
メキシコにしか作品を造らなかったバラガン。
素朴なテクスチュアの壁を、花の色や空の色や大地の色に塗りつづけたバラガン。
天上からの官能的な光に、おそらく神を見ていたバラガン。
バラガン見立ての mexico 数寄、あるいはバラガン婆裟羅とでもいうべきか。
バラガンの建築を見ていると、彼のなかでは、若き日にパリで浴びたモダニズムとメキシコ人
としてのアイデンティティとが、境界線なく交わっていることがとてもよくわかる。
ルイス・カーンをはじめとして、この孤高ともいえる建築家を敬愛する建築家は少なくない。
馬好きとすれば、厩舎をアーティスティックにデザインできる建築家に、ひたすら脱帽です。
luis barragan official website
*
■ 雷鳴の頸飾り ― 瀧口修造に 書肆山田 19791210 初版
シュルリアリスト瀧口修造の追悼詩集。
いい本だな。
佳い感じに時を重ねた古本がたまにあるけれど、この本はそんな一冊。
体裁、デザイン、タイトル、そしてその詩のクオリティ、本としての完成度も高い。
なかでも巻頭の、ミロが瀧口修造の名前を織りこんで描いた絵は、秀逸。
こんな追悼集をだしてもらえる詩人は幸せだと思います。
■ 海図と航海日誌 池澤夏樹 スイッチ・パブリシング 19951215 第1刷
作家の父と詩人の母をもつサラブレッド、池澤夏樹の書評集。
決して彼のいい読者ではないのだが、植田正治のジャケットと、そのタイトルに惹かれて。
本というものの役割を、「日々の糧と回心の契機」の混合だと、池澤さんは序文で言っている。
そりゃあそうなのかもしれないけれど、こういう風に硬質に迫られてしまうと、それはちょっと
いい子すぎるんじゃないのと、つい冷やかしたくなってしまう。
a little too square, なんか音楽の趣味がぜんぜん違うような気がするんだ。
最後の章、「寄港地一覧 あるいは九十九の小説」は、格好のカタログではあるけれど。
■ 土星の徴しの下に スーザン・ソンタグ 晶文社 19911220 第5刷
ソンタグ ― 晶文社、しかもレア・アイテムとくれば、不見転です。
「私は今これをパリの小さな部屋で書いている。」という、鞘からそおっと刀を抜くような書きだし
から、アントナン・アルトーを中心にヴァルター・ベンヤミンやロラン・バルトやファシズムのこと
などを、彼女らしいシャープな語り口で綴っています。
「知性」を絵に描けばこのようになるのか。
訳者あとがきによれば「スーザン・ソンタグがこれまで書き得た最も見事な評論集」であるらしい。
本棚にあるだけで充分の一冊、これを書いた1980年はおそらく彼女のピークじゃないでしょうか。
■ 詩人のノート ― 1974.10.4-1975.10.3 田村隆一 朝日新聞社 19780920 第3刷
詩人のエッセイを読むのは楽しい。
ひとつひとつの言葉の粒が立っているから。
田村隆一は詩人という言葉が似合う人だ。
丸谷才一によればこうだ。
「彼は、あるいは日記をつけるやうに、あるいは葉書を出すやうに、そしてあるいは冗談を言ふやうに
詩を作る。つまりここには、現代日本には珍しく、ライト・ヴァースの作者がゐることになる。」
いつも飲んでいるのに、あまり酔いどれな感じがしないのは、この人の都会的な人柄ゆえか。
引用されている詩がどれも素晴らしい。
詩人の選ぶ詩にはなんともいえない独特の味わいがあります。
*
BOOKS+コトバノイエ 1st anniversary の企画を開催しています。 chech it out !
建築家矢部達也さんが選んだBOOKS+コトバノイエの30冊
これは果たして新たなる才能なのか、あるいは確信犯的なトリックスターなのか。
■ 原初的な未来の建築 藤本壮介 INAX出版 20080415 初版
新しい「言葉の建築家」の登場を感じる。
その新しさは、旧世代の論客(磯崎・黒川・隈)が文脈や論理として語ったことを、
コピーライティングのような感覚で軽々と表現していることだろう。
そしてその感覚は、この「関係性」の時代にふさわしいものかもしれない。
(1971生まれの彼にとっての取捨選択のモノサシは、「価値(旧世代はこれに拘泥した、
肯定するにせよ否定するにせよ)」ではなく、「関係(AよりBのほうがなんとなく、という
ような)」ではないかと想像する。当然ながら、「関係」には、正しい答えなんていうものは
存在しない。)
たとえばそれはこんな風だ。
□ 巣ではなく洞窟のような 人工と自然のあいだ コルビュジェのようにではなく
□ 5線のない楽譜 時間は、つまり空間は、関係性である ミースのようにではなく。
□ 離れていて同時につながっている 建築とは距離感を作り出すことであろう 0と1の間のグラデーション
□ 街であり、同時に家であるような 複雑な関係性が織り成すプリミティブな全体 パサージュ論
□ 大きな樹のなかに住むような 完結した部屋ではなく、関係しあう居場所 居場所の立体的なネットワーク
□ あいまいな領域のなかに住む さまざまな密度の濃淡による「ぼんやりとした領域」
□ ぐるぐる すべての「外」を内化し、すべての内を外化する渦巻き ぐるぐるは、身体化された無限である。
□ 庭 建築とは屋根のかかった庭である。庭とは屋根のない建築である。
□ 家と街と森が分かれる前へ この家には屋根がない、あるいは厚い空気の屋根がある。
□ ものと空間が分かれる前へ ものと空間は別々のものではない。音と沈黙は別々のものではない。
(後半はちょっと苦しいね)
ここに提起されたきわめて感覚的な表現が、じつは建築のコンセプトではなく、
彼がこうありたいと描く建築家の平面図であることは、この本を読めばすぐわかることだけれど、
彼が巧みなのは、それがそのまま自分自身のための広告のコトバになっているというところだ。
そして、広告のコトバで現されているものはやはりマーケティング・タームということになる。
建築家に限らず、どんな職業であってもマーケティングやプロモーションが必要であることは
間違いないし、それぞれがそれぞれのやり方で行っているわけだけれど、建築家としての
マーケティングのターゲットを、金主である施主ではなく、建築界とマスメディアに絞っている
ところが、この人の頭の良さじゃないだろうか。
彼が何回もSDレヴューに応募し、入選・受賞しているのはけっして偶然ではなく、おそらくこの
「言葉と建築」というマーケティング手法を強く意識しているからに違いないし、「建築家」の建築は、
この島国では施主が決めるのではなく、建築界やメディアに流れる空気で決まるということを、
よくわかっているからだろう。
そしてその手法に(うまく)反応したのが、この本に寄稿している伊東豊雄さん、五十嵐太郎さん、
そして対談をしている藤森照信さんという建築界の面々だったようだ。
good job, sou.
初めて建てた建物が北海道の実家の精神病院(聖台病院)の別棟(施主は親)、JIA新人賞を
受賞したのが同じ北海道にある精神障害者生活訓練施設、そしてやはり北海道の情緒障害児
短期治療施設で JIA日本建築大賞、身内を泣かせながら受賞作を造っていくのは、
アート・コンシャスな建築家の王道でしょう。
彼自身は自分の造るものの総体を「space of intention(意図のない場所)」と表現している。
つまり、「space of no intention」という 強力な intention だ。
intention、すべてが意図するところ、確信犯的に、芸術のように。
「建築というのはすべて『つくられたもの』 だけれども、それを少し超えて『できてしまったもの』
のようにするこ とはできないかということです。すごく厳密な人工的なプロセスと、 『偶然性』や
『曖昧さ』とが同時に立ち現れるような形式がありえるのではないかと思うのです。」
ピカソやウォーホルやコルビュジェがそうであったように、現役で「売れる」ためにはアーティスト
自身のマーケティング能力は必須のものだ。 そういう意味では、この若者もいまのところ資格十分、
これからの彼の activity と その attitude は注目に値する。
その論がフェイクであれリアルであれ実はそんなことはどっちでもいいんだ。
建築には「建物」という変えようのない実質があるんだから。
「 Tokyo Apartment 」はイカしてます。
とにかく流されることなく自分がいいと思う建物だけを作り続けてください、「独裁者」的に。
あなたのいちばんいいところは、自分が一番だと思ってないところじゃないでしょうか。
老婆心ながら。
*
晴れた日は晴れた日の、雨の日は雨の日の本が集まってくる。
なかなか思うようにはならないけれど、一冊でも心の奥底に触れるような本があればいいな
と思いながら、あちこちの本棚を流して歩く、ときにはインターネットのジャングルも。
■ 映画 X 東京 とっておき雑学ノート 小林信彦 文藝春秋 20080425 初版
遠くに住んでいる伯父さんからの手紙のような本が amazon から届き、そしていつものように
一気に読み終えた。
なんとも冴えないタイトルだけれど、週刊文春に連載されている時評コラム「人生は五十一から
− 本音を申せば」の単行本もこれで10冊目になる。
晩年をむかえて、いわゆる雑文(実はコラムこそがこの人の本領じゃないかと思うんですが)を
書くことがめっきり減った小林さんだが(残された時間をできるだけ小説に集中したいと自らが
おっしゃっていますから)、この連載だけは律儀に続けていてくれている。
見巧者ぶりはおとろえず、
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を「CG仕掛けの人情喜劇」と断言し、マーティン・スコセッシを
大作ではなく小品に資質のある「生まれついての映画オタク」、そして昨年のアカデミー受賞を、
ポール・ニューマンのハスラー2のときと同じ、アカデミー会員の贖罪票だと喝破する。
タモリ倶楽部の空耳アワーが少しお荷物になってきたと見破るところなんかはこの人の真骨頂だ。
こうやって毎年春先に届くクロニクルは、お花見やダービーと同じ春の季語になってしまっていて、
老境に入ったこのヘンコな作家が今年も元気でいてくれるというだけで、なんとなくウレシイ。
■ ランボー全集 全一巻 アルチュール・ランボー/金子光晴訳 雪華社 19770325 5刷
ランボーは何冊かもっているけれど、金子訳となると買わずにおれません。
翻訳もの、とくに詩のような韻文は、訳者でぜんぜん変わってくる、その違いかくの如し。
<粟津則雄 訳>
酔いどれ船
おれが非情の大河をくだっていったとき、
おれを導く船曵きの綱の覚えはもうなかった、
かしましい赤肌の蛮人どもが船曵きを的にと捕え、
色とりどりの棒杭に身ぐるみぬがして釘づけていた。
<金子光晴 訳>
酔っぱらいの舟
ひろびろとして、なんの手ごたえもない大河を、僕がくだっていったとき、
船曵きたちにひかれていったことを、いつしかおぼえなくなった。
罵りわめくアメリカ・インディアンたちが、その船曵きをつかまえて、裸にし、
彩色した柱に釘づけて、弓矢の的にした。
まあ最後は好みなんですが。
■ ティファニーで朝食を トルーマン・カポーティ/村上春樹訳 新潮社 20080225 初版
ヘプバーンではなく、ミス・ホリー・ゴライトリーのキュートな寓話。
これぞ都会小説そしてこれぞカポーティという佳作で、単行本で本棚に並べられるのはうれしいし、
ハルキの訳もサリンジャーの時よりは雰囲気がでているけれど、わざわざ再訳する必要があったのか
どうかと思ってしまうのは、「キャッチャー」と同様、これもまたマーケティングのなせる業か。
オープニングを少し。
旧版 <瀧口直太郎 訳>
私はいつでも自分の住んだことのある場所 -- つまり、そういう家とか、その家の近所とかに
心ひかれるのである。
新版 <村上春樹 訳>
以前暮らしていた場所のことを、なにかにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたか、近辺に
どんなものがあったか、そんなことを。
<原文>
I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods.
・・・・ やはり原書で読みなさいということですね、これは。
■ 向田邦子の青春 向田和子 ネスコ/文芸春秋 19990528 2刷
向田邦子のエッセイは上質だと思う。
父の詫び状/眠る盃/夜中の薔薇、どの作品も軽妙で、品があって、文章がうまい。
遺作「夜中の薔薇」を読んでいるときに、ふとこの本に巡りあってしまった。
別にどうっていうことのない本だし、ちょっとオバサン趣味かなあとも思ったけれど、
こういうシンクロニシティを大切にしておかないと古本の神さまは微笑んでくれないのだ。
表紙のポートレイトが美しい。
■ 丘に向かってひとは並ぶ 富岡多恵子 中央公論社 19760705 再版
起きぬけに
きみが泣くことはない
それよりも
窓をあけて
入ってくる景色を
茶碗か皿にうけとって
とはじまる「 don't explain 」という詩や、
思い出さないで
あの長い時間のこと
きみがわたしにマッチをすり
そのすきまに
きみとわたしの目が合った
ちょっと切ないこの「長い時間」なんかが昔から好きだから、
この人の本があると、読まないのについふらふらと買ってしまう。
ひょっとしたらこれを「腐れ縁」というんでしょうか。
