artの最近のブログ記事

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I.M.ペイ設計の美術館で、若冲を観た。

鳥獣花木図屏風(六曲一双)」を間近で観られるのは、たぶん最初で最後じゃないかと思う。

□ 若冲ワンダーランド                  MIHO MUSEUM                  2009/09/01 - 12/13

そして、本邦初公開の「象と鯨図屏風(六曲一双)」も凄い。

どちらも拡げて並べるとると7mを越す畢竟の大作、展示された実物を目の当たりにすると、
寄って引いてを繰り返しながら、その迫力にただ圧倒される。

若冲も、外国人によって発見された日本の美のひとつだ。

この前のエントリーでとりあげた、草森伸一の「フランク・ロイド・ライトの呪術空間」の冒頭で、
ライトが設計した高層ビルを見るために訪れたオクラホマでの話として、ライトの弟子ブルース・
ガフが設計したという、そのビルのオーナーの邸宅に招待されときのたことが書かれていた。

このとき彼らを招待したのが、世界的な、というか世界で唯一の若冲コレクターのプライス夫妻
であり、このプライス氏に若冲を教えたのが、なんと F.L.ライト その人だったそうである。

1953年、ライトと共に立ち寄ったニューヨークの古美術店で、若冲の「葡萄図」に出会った24歳
のプライス青年は、それをきっかけとして若冲を始めとする江戸絵画に魅せられ、遥か遠い国
日本の旧家の蔵に眠る若沖を収集し、あげく通訳に雇った日本女性を妻として迎えたのだった。

誰にも影響されることなく、自らの琴線に触れる作品だけを選んできたという本物のコレクター。

「具眼の士を千年待つ」と若冲自らは語ったそうだが、200年を経ても彼の芸術を理解できた
のは、世界中でこのオクラホマの田舎青年唯一人だったのだ。

京都・錦の青物問屋の総領息子だったという若冲。
40歳で若隠居し、85歳まで妻帯もせずストイックに自分だけのため描き続けたという若冲。
アメリカという国が生まれた頃、シューベルトやベートーベンが生きていた頃の話だ。

極彩色のモザイク画「鳥獣花木図屏風」は、そのプライス・コレクションからのものである。

至近距離で観るこの屏風にはおもわずうなってしまう、というより絶句する。

モチーフを枡目の単位で分解し、自分自身のプログラムでそれを再構築するピクセル的手法。
そしてその約1cmの枡目のひとつひとつを、緻密に絵の具で彩色できる超絶的技巧。
大胆で独創的な獣や鳥のフォルムと、それを自在にレイアウトするデザイン力。

このポップでデジタルな一双の屏風は、たとえばそれがコールハースの建築のなかに置かれ
たとしても、違和感なく収まると思えるような不偏の art piece としての存在感をもっている。
ダ・ヴィンチやフェルメールやピカソや北斎の作品と同じように。

あるいは曼荼羅や浄土の図、アンリ・ルソーにも似てるかな。


そして、名著「奇想の系譜」の著者として若冲や蕭白を「発見」し、 MIHO MUSEUM 館長で
ある辻惟雄氏が、昨年発掘したという水墨画「象と鯨図屏風」の雄大なスケール感も格別だ。
(それにしても納戸にこの若冲の屏風をもっていたという北陸の旧家っていうのもスゴいね。)

潮を噴きながら悠々と沖合いを泳ぐ鯨を、微笑みながら眺める象(海岸にいて、しかも座って
いるんだ)なんていうストレンジな構図を、この人以外の誰が描けるのかと思う。

同じような構図の屏風絵がもう一対あることが、昭和初期の売り立ての目録に記録されている
そうだが、82歳のときに、159 x 354 cm という、当時としては破格の大きさであったであろう
継ぎ目のない一枚の大きな紙に、この奇想のタブローを描ききる情念の深さ、そしてその体力。

画家の視線はどこにあるのか、なにが視えているのか。

ワンダーランド - 不可思議の國 とは、若冲の宇宙を、まさに言い得て妙なタイトルだ。

期間中にもう一度行きたい。

P.S.
今、東京国立博物館で開催されている「皇室の名宝―日本美の華」の「動植綵絵」30幅も、
たぶん、そうとう素晴らしいはず。
あの掛け軸30幅すべてが、一堂に展示される光景は、さぞや壮観だろう。
天皇家、さすがイイものもってる。

*

某月某日の本買記

なんかあんまり冴えない本買いだったなあと思っていたけれど、データベースに入力しながら、
一冊ずつ眺めているうちに、なんだかとてもいい感じに思えてきた。
(このときチラッと見るだけで、すぐに離れてしまう本もあるんだけれど)

澁澤龍彦を追悼した大型本は珠玉の一冊だし、昭和47年の吉田秀和もシブイ。
買直しの光琳は、ずっともう一度欲しいと思っていた本。

均一棚で見つけたエッセイ集は、今集めている東京書籍の「ザ・スポーツ・ノンフィクション」という
叢書の、ちょっと珍しい一冊だった。

最後に迷いながらレジに運んだ、布張りの函に入った小冊子(Petit Glam no.7)も、家で見たら
書店で見たときよりずっとキュートな本だったので大満足。

谷川詩集もマイナーな一冊だけど、詩集を買えるのは、気持ちが素直な時だけだし、帰ってから
それが菊池信義装丁だったことに気づいたのも、ちょっと得した気分だ。

雑誌も、少し高かったが、ロバート・フランク特集の COYOTE が買えたのは僥倖。
CASA別冊の無印特集やイサム・ノグチも悪くない。


□ 澁澤龍彦 夢の博物館     美術出版社    19880715 初版

□ 一枚のレコード     吉田秀和     中央公論社   19721130 初版  

□ Petit Glam no.7    MODERN CRAFTS ISSUE  プチグラパブリシング  20030210 初版

□ ニッポン縦断日記    アラン・ブース    東京書籍   19881019 第1刷

□ 詩を贈ろうとすることは    谷川俊太郎    集英社   19910525 第1刷

□ 光琳デザイン    淡交社    20050208 初版

□ イサム・ノグチ  CASA BRUTUS特別編集    マガジンハウス  20050710

□ 無印良品の秘密  CASA BRUTUS特別編集    マガジンハウス  20030430

□ COYOTE  2009/03  vol.35  ロバート・フランク   スイッチパブリシング  20090210


某月某日の新刊

□    パティ・スミス完全版 Patti Smith Complete      アップリンク     20000420 初版

パティ・スミスの映画、「 dream of life 」を小さな劇場で観た。
10年をかけて撮影されたという、パティ・スミスのモノローグやインタヴューやコンサートの
映像を、丁寧に編集したドキュメンタリー・フィルムだ。

詩人であり、アーティストであり、母でもあり、何よりも HIP なロッカーの心の旅。
― the journey through the past.

Life is an adventure of our own design intercepted by fate and a series of lucky and unlucky accidents.
I didn't mind becoming an artist, poet.  Through that pursued, I found a root of my voice.

パティ・スミスは、ニール・ヤングがそうであるように、生き残った ROCKER のひとりだ。

63歳のニューヨークの知性的なロッカーの、その真摯な魂に刺激され、「詩と回想、そして
未来へのメモ」というサブタイトルのついた大型本を、版元に(どういうわけか、Amazonには
中古本で29,700円という法外な値段の本しかなくて、いったんは諦めかけたのだが、さらに
しつこく調べてみると、版元にはちゃんと新本の在庫があって、しかもそれは定価よりずっと
安いプライスでセールされていたりしたので)、映画のあとの勢いにまかせて、オーダーして
しまったのだった。

書き下ろしの回想記、これまでのすべてのアルバムの歌詞、曲やアルバムに関するエッセイ、
メープルソープやリーボヴィッツなどが撮影した150カットの写真が、A4サイズ/280Pの本に
ギッシリと詰まっていて、まさに " Complete " とよぶにふさわしい出来映えの一冊である。

すでに、ジャケットの写真が違う、USオリジナル版が欲しくなっている。


*


最近追加した「建築と戯れる」のブックリスト。

SPOT LIGHT 企画、「 his master's choice - BOOKS+コトバノイエ 晶文社の30冊 」公開中。


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― この辺りのものでござる ―

これは狂言の名乗り、つまり舞台に出たときの第一声なんだそうだ。

声に出して言ってみると、なんかちょっといい感じ。

中国であろうがタンザニアであろうが、狂言師たちはともかくこの台詞からパフォーマンスを始める。
今からここで演じるのは、600年前の日本の話ではなく、時代や場所や文化を超えた、どこにでもいる
太郎冠者が演じる道化や滑稽の物語なんだよっていうことを、「この辺り」という言葉で表現しているわけだ。

それを第一声で、しかも一言で、鮮やかに。

特定の人名を言うわけでも、どこか決まった土地を表すわけでもない。だけどとても普遍的で
「現在を生きる」同時代性をも感じさせる。狂言の精神が凝縮されたせりふかも( by 野村萬斎)

 
「この辺り」は、宇宙だ。

「この辺りのものでござる」と発するだけで、時間と空間がひとつになる。


「この辺り」だけじゃなく、狂言の名乗りには他のパターンもあって、たとえば「心の直ぐない者でござる」
というのは、オレは心がひねくれてる、つまり悪いやつだぞと、悪人があらかじめ自己紹介する台詞で、
悪人が悪人だといって登場すること自体が、もうすでにいかにも狂言だ。

狂言のことは、ほとんどなにも知らないけれど(本棚を探したが、狂言の本は一冊もなかった)、伝承される
伝統や型の凄さは工芸の世界で見せつけられている。
狂言も室町時代から連綿と続いている芸能なんだから、きっと懐の深いものが隠されているに違いない。

なにしろ 狂+言 なんだから。


ぜひライブで舞台が観たい、大阪城の薪能でも行ってみようかな。


*


全然関係ないけど、「名乗り」でなんとなく浮かんできたのが The Rolling Stones のある曲ことだ。

「悪魔を憐れむ歌(Sympathy for the Devil)」
1968年のゴダールの映画(One Plus One )でその制作風景が克明に描かれている。

その歌はこう始まる。

" Please allow me to introduce myself "

突然の名乗り。
でも彼は自分を、「I'm a man of wealth and taste(金持ちで趣味が良い)」と言うだけで、名前はいわない。
太郎冠者と同じように。

Please allow me to introduce myself
I'm a man of wealth and taste
I've been around for a long long year stolen many man's soul and faith
I was around when Jesus Christ had His moment of doubt and pain
Made damn sure that Pilate washed his hands and sealed His fate
Pleased to meet you hope you guess my name
But what's puzzling you is the nature of my game

まあ最後には Lucifer(魔王)と呼んでくれと、その名を告白し悪魔らしい傲慢な警告で終わるんだけれど、
まるで一幕の劇を観ているような歌で、ストーンズのステージのクライマックスで必ず演奏される曲として、
公式に発売されたライブアルバムには必ず収録されている。

そういえばミックのステージ・アクション( now and then)は、能とか歌舞伎とかの日本の古典芸能の型を
思わせることがあるんだよなあ。

ややこしや、ややこしや。

*

iPhone を使いだしてから、ほかの携帯電話がまったく気にならなくなった。
デザインっていうのはそういうことなんだなと、あらためて思う。

ハードウェアだけじゃなく、インターフェイスやシステム、そしてプロモーションまでも包含したグランド・デザイン。

良くデザインされたものには邪心を感じない。

色褪せないもの、quintessence って、きっとそういうものなんだろうな。

 

■ 鳥のように獣のように    中上健次    北洋社   19760620 初版

1992年46歳で夭折した中上健次のはじめてのエッセイ集。
アーティストはデビュー作に向かって歩むというけれど、この散文集は、その後の彼を予言しているようだ。
それが物語(fiction)ではないだけに、この人の「素」を、よりあからさま感じてしまうのだ。

ボブ・ディランの「血の轍(blood on tracks)」というアルバムがあるけれど、中上健次ほど「血」というものに
がっぷり取り組んだ作家はいないんじゃないだろうか。

誰しも出自というものがあるわけだから、「血」は避けられない必然だけれど、物語の根にそれを置くことは、
ひとつの確信だ。中上健次に根強い読者がいるのは、その確信の力強さに惹かれるからじゃないかと思う。
熱心な読者じゃないものからすれば、それが少し暑苦しくもある。

転がりつづける血の轍。

鳥のように自由に獣のようにしたたかに在りながら。

「さて、紀州というその風土に生れた小説家としてのぼくは、敬語、丁寧語のない言葉を血肉に受け、
人がいるのではなく、在る、在ってしまう世界を書こうとしているのだ、と言えば、自己解説しすぎるだろうか」

真摯に文学に立ち向かった小説家のリアルがそこに在る。

「どうかどさりといかにも一番速い便で貨物が届いたと、この本を受け取ってほしい。」


■ 映画的建築/建築的映画    五十嵐太郎    春秋社   20090430 初版 第1刷

どういうわけかこの人は人気がある。
この前の「建築と植物」もあっという間に売れてしまったし、この本も一度即売してこれが2冊目。

Wiki してみたら、2008年も3冊、今年もこの本で3冊目の上梓という勢い、本のタイトルが、「建築と植物」
「建築と音楽」「建築学生のハローワーク」「ヤンキー文化論序説」、そしてこの「映画的建築/建築的映画」と
いかにもインテリ・キャッチーなものばかりで、しかもパリ生まれで東大大学院というエリートだそうだから、
やはり注目のスターとして認知すべきなんだろう。

映画と建築というのは魅力的なテーマだ。
ハリウッドのオープンセットは建築そのものだし、黒澤明や小津安二郎の映像空間は、建築的解釈に溢れている。
そして建築というプロジェクトの制作プロセスは、映画のそれと酷似している。
どちらも、「空間と時間において展開する視覚的な表現」だからだ。
(映画監督と建築家の差異は、イメージの中にフレームがあるかないかということに尽きる)

また、実際の建築が、ランドマークあるいはイメージを形成するシンボルとして映画に登場することも多い。
「ワールド・イズ・ノット・イナフ」のビルバオ・グッゲンハイム、「ブラック・レイン」のキリンプラザ大阪、
「シャイニング」のオーバールック・ホテル、古くは「キングコング」のエンパイア・ステート・ビルディングなどが、
その典型だ。

この人の文章はちょっと軽い、というか奥行きがない。
初出誌の性質はもちろんあるだろうから、この本だけで判断するのは酷かもしれないけれど、彼がもっている
シャープな視線や評論家としてクレバーなところが、文体で表現されていないように思えてしかたがない。 
雑誌に書きすぎなのかなとも思うけど、やっぱり批評のコアは文体だから、それが弱いとなんか読み返す気が
あまりしないのだ。
ひょっとしたらホントに視えていないのかとも思ったり。

なんていうことをウダウダ書いている間に、また売れちゃった。
やっぱり人気あるね。


■ 室町小説集    花田清輝    講談社   19731108 第1刷

小説集と銘うってはいるが、評論なのかエッセイなのか小説なのかよくわからない。
そのないまぜな感じが、「ランティエ(高等遊民)ではないが『魅力のある悪家老』( by 川本三郎)」と評された
この人の味わいか。

たぶん、谷崎潤一郎は、偉大な小説家なのであろう。わたしもまた、かれの才能をみとめないわけではない。

冒頭の「『吉野葛』注」の書き初しからしてこんな風なのだ。

そして物語は、その谷崎潤一郎の吉野譚から連作のような流れで、南北朝の話、失われた三種の神器のひとつ
"玉"を巡る、吉野川源流の山奥での武家、公家、入道、神官入り乱れての争奪の顛末が、虚々実々に描かれる。

「吉野葛」注 / 画人伝 / 開かずの箱 / 力婦伝 / 伊勢氏家訓

通底するのは、室町期の「日本のルネッサンス人」の姿だ。

この人のレトリックを駆使した変幻自在なその筆致は、読むものを揺さぶり、転がし、泡立たせる。

まるでグレイトフル・デッドのサイケデリックなROCKを聞いているみたいだ。


■ 装幀時代     臼田捷治    晶文社   19991005 初版

労作。

本のデザインとそのデザイナーを丹念に描いたその仕事ぶりに敬意を表したい。

紙と活字(タイポグラフィ)と印刷技術。
素材から考えると、装幀は職人的要素の強いデザイン・ワークだなと思う。

でも本好きにとって本の佇まいは、ひょっとしたら内容以上に重要な要素で、その中に書かれていることが
いくら面白くても、全体の気配がそのときの気分にフィットしないと、その本は本棚には並ばない。

函・ジャケット・帯・表紙・見返し・扉・目次・本文・奥付、それらのデザイン・トーン・レイアウト・テクスチュア、
あるいは活字・行間、そして余白。
本の物体としての存在感は、こういったものがプロの手で絶妙に組み合わされたときにだけ際立つのだ。

この本は、日本を代表的する装幀家11人(原弘、吉岡実・栃折久美子、粟津潔、杉浦康平、和田誠、
平野甲賀、田村義也、司修、菊池信義、戸田ツトム)を作家論としてを紹介しながら、「装幀」からの視線で、
出版文化全体を見通している。

自著の装幀もした詩人として萩原朔太郎、室生犀星、北原白秋、北園克衛、瀧口修造も論じられている。
なかでもVOUの詩人、北園克衛のデザイン・センスには圧倒される。

美しい本は、珠玉である。

そしてその珠玉は、卓越したデザイナーの手からしか生まれてこないのだ。

 

■ 私の食物誌     吉田健一    中央公論社   19781020 11版

吉田健一は、吉田茂の長男、現職総理大臣のお母さんのお兄さん、つまり叔父さんにあたる。

文筆家としては、ヨーロッパの文学が主戦場の人だけれど、エッセイでは食べ物の話も何冊か書いていて、
この本は読巧者の丸谷才一さんが「戦後の日本で食べもののことを書いた本を三冊選ぶとすれば」の一冊に
あげられている(あとの2冊は、邱永漢「食は広州に在り」と檀一雄「檀流クッキング」-さもありなん)。

こういう本職から離れた趣味的な本というのは、リラックスして書けるせいか、その人の素の姿や、
もともとの文体が表れることがよくあるけれど、この本はそういったものの典型だろう。

食べ歩きのエッセイは、芸のない人が書くと蘊蓄やトリビアにいってしまうものだけれど、この本には、
そんなものは気持ちがいいくらい存在せず、「うまいものを呑み食いする」ということの本質的な意味を
探しながら散歩する(いささか哲学的な)吉田健一の姿が、ただあるだけだ。

冒頭の「長浜の鴨」の一節を引用する、少し長くなる(短い引用を許さない文体なんだ)。

「これは琵琶湖にいる鴨のことなのだから長浜でなくてもよさそうなものであるが、どういう訳か長浜の辺で
取れる琵琶湖の鴨は旨い。又長浜の鴨と特に呼ばれてその季節には神戸のホテルの食堂などにも出る。
広島の牡蠣とか明石の鯛とかいうのと同じことなのかも知れない。勿論冬食べるので、それがどうも厳密に
二月一杯のことのようで前に一度それほどとも思わずに三月一日に食べにいったら何か味が違っていた。
長浜に行くとその鴨を食べさせる店が幾らもある。ただ何か出しを入れた鍋で煮て食べるだけのことであるが、
それが鴨の味がする。これは妙な言い方で他にもっと旨い説明ができる筈であってもその味以上のものは
ないと食べながら思うのが結局は鴨の味ということに落ち着く。」

饒舌体とでもいえそうな独特の文体と比喩は、決して読みやすいとはいえないけれど、その味わいは渋く、甘い。

洒脱な造本と滋味深い文章、余裕がなければ本はこういう仕上がりにはならない。


and so on,

■ 変幻する神々 アジアの仮面    杉浦康平編・構成  日本放送出版協会  19810610 初版

■ 屋根裏のミニ書斎     芦原義信    丸善株式会社   19840630 初版

■ 笑う月     安部公房    新潮社   19751125 初版

■ 夢について     吉本ばなな    幻冬舎    19940909 第1刷

■ モダン・ジャズのたのしみ     植草甚一    晶文社   19901220 21刷

■ 私の岩波書店     山本夏彦    19940621 第2刷

■ 良心的 夏彦の写真コラム     山本夏彦    新潮社   19910320 初版

■ 利休にたずねよ     山本兼一    PHP研究所   20090204 第1版第3刷

 

*


最近追加した「読む音楽も面白い」のブックリスト。

SPOT LIGHT 特集企画第4弾、「 ミーツ・リージョナル編集室の半井裕子さんが選んだコトバノイエの30冊」公開中。
気鋭の女性エディターのセレクションをお愉しみください。

 

http://kotobanoie.com

 

 

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ここではないどこか

ささやかな非日常ではなく、before - after

たった40時間でも世界は変わる、そうじゃなきゃ旅する意味がない。

雪の金沢で、杉本博司の exhibition を観た。

■ 歴史の歴史        杉本博司     金沢21世紀美術館         20081122 - 20090322

2003年の銀座メゾン・エルメスにはじまり、ニューヨークのジャパンソサエティギャラリー(2005)、
ワシントンDCのフリーア美術館(2006)、カナダのロイヤルオンタリオ美術館(2007)、サンフラン
シスコのアジア美術館(2008)と、世界各地を巡回されてきた「歴史の歴史」展は、会場や時期
によって構成や展示方法がずいぶん動いているようで、この exhibitionそのものが彼にとっての
表現で、それぞれのスペースとのセッションと捉えているようだ。

そして2009年の金沢21世紀美術館。

SANAAが企てたゆるやかな境界感は、杉本博司が見立てた歴史の姿を美しく包み込んでいた。

ガラスの壁に覆われた円形のフロアに、島状に配置された展示空間。
違うスケール感をもつ九つの場に、分散して exhibit されるオブジェとインスタレーション。

拡大解釈された「写真」たち。

真を写したものを写真と定義するなら、古代の化石や天平時代の当麻寺東塔の古柱はもとより、
第二次世界大戦中のTIME誌や二月堂の失火の焼損の痕が生々しい「紺紙銀字華厳経(二月堂
焼経)」やアポロ11号で食べ残された宇宙食など、ここに集められた彼のコレクションすべて(膨大
な数である)が、歴史を写した「写真」であり、展示空間のデザインをも包含した彼の写真家として
の表現と理解すべきなんだろう。

そしてその表現の奥底にあるのは、毅然とした美意識と、「私の精神の一部が眼に見えるような
形で表象化されたもの」の上澄みだけを掬いあげるアーティストとしての「技術」で、それを観る私
たちは、その美学に感応できるかどうかを、きびしく迫られる。

ワタシハカンジルガキミハドウダ ?
キミニミエルカ ?

「ここに集められたサンプルは、私がそこから何かを学び取り、その滋養を吸収し、私自身の
アートへと再転化する為に、必要上やむを得ず集められた私の分身、いや私の前身、である。」

その展示作品には、彼にしかできない「見立て」がいくつもあり、そのどれもが美しい光を放つ
ものではあったけれど、なによりも強く感じたのは、遺物収集というものの「業」の深さだ。

遺物には憑かれる。
ましてそれが自身の存在理由とかかわるものならなおさらだ。

下世話な話だけれど、これらの珠玉を手に入れるために彼の手元を離れていったであろう作品
の数々がおもわず頭に浮かんでしまったんだ。

旧作も合わせて展示されるものと思っていたので、古典的なゼラチン・シルバープリントの写真
が少なかったのがちょっと残念だったけれど、「海景」のオリジナル・プリントを拝見できたのは
ありがたき幸せ。

それにしても、芸の奥行きが深い。

あとは散歩。

まずどこに行っても古本屋ははずせないところとしても、ふらふらっと入ってしまった古美術店で、
茶入」なるものを買ってしまったのは、予期せぬことだった。
きっと杉本博司の遺物収集の熱ににあてられてしまったんだろうと思う。

ややずんぐりとした蹲(うずくまる)のような信楽の肩衝茶入、のぼり窯の強い炎で炙られた肌
には信楽らしい石はぜや焦げもある。肩口には灰釉もしっかりと流れて、しかも茶入としては、
かなり珍しい「共蓋」がちょこんとのっている。

掌でちょうど包みこめるその大きさがなんともカワイイ。

やきものの世界で茶道具は、別格といってもいいほどの存在だが、なかでも茶入は、「見立て」
もあまりきかず、茶会でしか使いようのないものだけに、独特の存在感をもつアイテムで、実際
に自分の手で触れてみると、織田信長が最後まで手元に置き、その配下の戦国武将が、一国
一城を賭したというその愛玩性の高さがわかるような気がする。

たぶん「美」なんていうものは、所有しないことが最上等なんだろうけれど、自分の場所で眺め
たり、自分の手で触ってみないとわからないことも、きっとある。

日暮れ時の昏い店先ではよくわからなかったけれど、底には銘があって、どうも「寿方」と読める。

調べてみれば、亡父の知己であった。
生まれてはじめてともいえる骨董買いだけれど、なんたる奇遇。

さっそく仕覆なるものと桐箱を手配した、できれば名前もつけてあげたい。

クセになりそうな気配。

*

■ 刻々の炎   八木一夫   駸々堂   19810228初版

小気味よいタイトル、かれが拵える「黒陶」のような函の雰囲気や活版の文字も素晴らしい。

八木一夫は陶芸の世界では伝説のスターだ。

柳宗悦の「民芸」に代表される、「用の美」という価値観に覆われていたやきものの世界に、
颯爽とアブストラクトな造形をひっさげて登場し、カフカを焼いたという「ザムザ氏の散歩(1954)
は、陶芸界の事件として語り継がれていて、彼が率いた「走泥社」の幻影も、未だに造形的な
やきものを志す人たちのなかに遺っているのではないかと思う。

1979年に亡くなったこのアーティストが遺した著作は「懐中の風景」と「刻々の炎」の2冊。
この「刻々の炎」は彼が亡くなった2年後に編まれたエッセイ集で、京都清水五条坂の茶碗焼き
の長男としいう出自から、中近東への旅日記まで、八章にわたる遺作アンソロジーでもある。

司馬遼太郎が、「若いころの八木に、私はつよく文学者を感じ、八木がいるかぎりうかつに小説
など書けないと思ったことがある」と記したこの人の文才は、冒頭に置かれた「いつも離陸の角
度で」という詩でも明らかだ。

「しかし、八木は「オブジェ焼き」の背後で「できごと」を考えていたようだ。
李朝白磁の白の意味、琳派の余白の金の意味、煎茶や煎茶器がもつ繊み(ほそみ)の意味、
青木木米にして届かなかったあることの意味、「窯ぐれ」や「写し」が巧まずして捻り出すものの
意味等々。本書を読んでいると、八木がそういうことを終始考えていたことがよく伝わってくる。
こうしてしだいに八木は「できごと」という器物の根源に向かっていった。(by Seigow M. )」

■ 逃亡くそたわけ    絲山秋子  中央公論新社    20050225 初版

amazonのカスタマーレビューに25の投稿がある。

それだけでもこの人がよく読まれていることはよくわかるが、シロウトのレビューを読んだだけ
でだいたいわかってしまうのはあまり面白くない。 経験則でいうと、ほんとうに面白いものは、
シロウトがシドロモドロしてしまうようなものの中にあるからだ。

デビュー作の「イッツ・オンリー・トーク」は、安吾の名作「青鬼の褌を洗う女」をおもわせるような
ヒリヒリした緊張感にあふれた佳作で、ひょっとしたら昭和40年世代のトップランナーになって
しまう可能性さえ感じさせられたけれど、精神病の弄びかたがこんな風に手馴れてきてしまうと、
無頼にならない。

心を残しながら捨て去ることが、無頼の矜持なのだ。

きっちり読みこめばこのロードムービー風は、もっと面白くなるんだろうか。

■ もめん随筆     森田たま     中央公論社   19361227 4版
■ きもの随筆     森田たま     文藝春秋   19560630 7版

女性のエッセイストの草分け、
群ようこだったか中野翠だったかのエッセイでとりあげられてリバイバルしたのは少し前だった。

掘り出しというほどのものでもないかもしれないが、どちらの本も、函つきのオリジナル(著者
装幀版)なら欲しいと思ってたから、状態はあまり良くないが、旅先の百均本としては悪くない。

タイトルも装幀もおなじ雰囲気だったので、続けさまに発行された本じゃないかと思っていたら、
なんと24年も間隔があいていた、戦前と戦後じゃないか。

どちらもまさにエッセイとしか呼びようのない、日々の暮らしのあれこれを、軽妙な筆致で、と
いった体のもので、今の時代から見ればそれほど珍しくもないスタイルだけれど、戦前に女性
が女性の視点で文章を綴って発表するというのはかなり新鮮なことだったはずだから、この本
が当時(昭和11年)のベストセラーになったというのも不思議じゃないし、群ようこや中野翠と
いった、この人と同じような文章の書き手が、このスタイルに共感するのも、よくわかる。

「もめん」の前半は、夫の郷里の大阪ですごした頃のことが綴られていて、冒頭から大阪には
美人が少ないという噂にはじまる、大阪の女と東京の女のあれこれが書かれていて面白い。

その感覚に少しも旧さは感じない。

■ そしてみんな軽くなった    トム・ウルフ    大和書房     19850910 第1刷

これも金沢での収穫。

原題は「 IN OUR TIME 」、意訳もほどほどにしてほしい。

トム・ウルフは、60's を生き残ったライターで、60-70年代におこったノンフィクション文学の
担い手として耳目を集め、「ニュージャーナリズムの旗手」というのがこの人の枕詞。

彼が造った「ミー・ディケイド(ジコチューの時代)」、「ラディカル・シック(過激派びいきの
有閑知識人)」といった新語は、この人の、本質を感じとるシャープな能力を感じさせる。

彼の特質はそのユーモア感と辛辣な皮肉だろう、そしてそれはこのヒッピー世代のアメリカ
人がもっている共通の、そして独特のセンスといってもいいものなのかもしれない。

この本は、1977年から「パーハーズ・マガジン」に連載された、自筆イラストがついたショート
コラムをもとに編集されたコラム集で、60年代の熱狂が過ぎ去ったあとの、日本では「シラケ」
といわれた時代のスケッチ、ディスコ、パンク、デザイナー・ジーンズ、ルーツ、ライト・ビール、
ジョギングといったその時代の風俗が、皮肉たっぷりに活写されている。

彼のなかで、70年代は「60年代の後の休息期間」ではなかったのだ。

この人の本は、「バウハウスからマイホームまで(1981)」「現代美術コテンパン(1975)」
「虚栄の篝火(1987)」「ワイルド・パーティーにようこそ(1976)」の4冊が本棚にあるけれど、
カポーティでいえば「冷血」にあたる代表作、「ザ・ライト・スタッフ」がないのが痛恨。

そのうち必ず手に入れる。

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