artの最近のブログ記事

trout5.JPG
 
blog と称しながら、日誌でも日記でもないものを書き綴っている。

RSS( あるいは Atom )というたいへん便利なシステムで購読(ちょっとへんな言葉だなあ)している
いくつかのブログを眺めていると、いわゆる日々の徒然を日記風にというのが主流で、みなさんたい
へんマメに更新していらっしゃる。

日記風を読むことは、なんか覗き見の気配もあって、それなりに楽しいんだけれど、読ませる工夫の
ない垂れ流しのモノローグや自己陶酔に、辟易とすることもたまにあって(まあTVと同じで文句がある
なら見なきゃいいんだろうけれど)そういうことがあると、そんなことべつに公開しなくてもいいん
じゃないのっていう気分になってしまうのだ。

逆にいうと、「垂れ流しのモノローグ」にならない日記風のブログを続けられる自信がないわけで。
それもほぼ everyday なんて驚異的としかいいようがない。

なんか不思議なメディアだなあと思う。

「書きたい」人がこんなにいたことも驚きだし、このたくさんの「書きたい」人たちは、このブログという
メディアができるまでどうしてたんだろう、そして「書きたい」人たちはこのまま書き続けるんだろうか、
などと思いつつ。

*

柳の下の2匹目の泥鰌かもしれない。

「だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ」に続き、題名の長い本を手に入れた。

こういうシンクロニシティーには、3回目まではつきあうべきだ、というのが経験則。
べつに合理的な根拠があるわけじゃないけれど、2度あることが3度あるのは統計学的な真実だ。

■ 洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵    洲之内徹   求龍堂  20080610 初版

小林秀雄から「いま一番の批評家は洲之内徹だね」と激賞され、青山二郎から「『芸術新潮』では、
洲之内しか読まない」とまで言われたエッセイ「気まぐれ美術館」。

洲之内徹は銀座「現代画廊」のオーナーで美術評論家、1987年に亡くなったあと、彼のアパートメント
に残された146点の絵画が「洲之内コレクション」として宮城県美術館に収蔵されている。

この本は、そのコレクションのカラー図版と、その絵にまつわる洲之内さんの文章からなる画文集だ。
 
「一処不在の私の、絵が故郷なのだ。」と語る無頼の人にとっては不本意な結末かもしれないけれど、
「盗んでも自分のものにしたかった」ほどに惚れ込み、「ともかく好きな画家、好きな絵だけを選び、
とくに人口に膾炙していない画家の発掘には、どんなところに出向いても交渉し、執拗な入手を果た
している(by 松岡正剛)」といわれたコレクションを目の当たりにできることは僥倖というべきだし、
その146点の絵画たちが、「気まぐれ美術館」や「帰りたい風景」の滋味深い文章とともにカラーで
掲載されたこの本は、muse からのプレゼントのようなものじゃないかと思う。

洲之内さんのキュレイションは one and only 、それは「目利き」というより「偏愛」を感じさせる。

個々に見ていくと、思い入れが強すぎてそれほどピンとこない作品もあるけれど、いわゆる批評から
一歩も二歩も深みのある文章が重ねられたとたんその絵は輝きだし、いわば画文一体とでもいうべ
き境地にはいったその作品は、画家の手を離れ、洲之内藝術と化す。

「利行(長谷川利行)のタッチはひょろひょろしているようでひょろひょろでなく、へなへなのようで
へなへなでなく、形はでたらめのようででたらめでなく、利行独得の澄んだリズムを持ち、妖しく美しい
フォルムになっている。ところが偽作の利行は、利行らしく見せようとして、ひょろひょろを真似する
からほんとにひょろひょろになってしまい、でたらめを真似してでたらめになってしまう。そして、その
ひょろひょろとでたらめを利行だとおもっている人が、いつもその偽作に騙されるということになる。」
(気まぐれ美術館)

この前のエントリーで書評のことを書いたときにも感じたことだけれど、批評のリアリティは作品への
「尊敬(=愛)」からしか生まれてこないんじゃないかと思う。

小林秀雄がこんな風に言っている。

「いい批評はみな尊敬の念から生れている。これは批評の歴史が証明している。人を軽蔑する批評
はやさしい し、評家はそれで決して偉くならぬ。発達もない、創造もないのです。フランスにも
admirer, c'est egaler(敬服するとは匹敵することだ)という諺がある。」

そしてさらに

「真っ白な原稿用紙を拡げて、何を書くか分らないで、詩でも書くような批評も書けぬものか。例えば、
バッハがポンと一つ音を打つでしょう。その音の共鳴性を辿って、そこにフーガという形が出来上る。
あんな風な批評文も書けないものかねえ。即興というものは一番やさしいが、又一番難かしい。文章
が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような
文章が書ければ、文章は生きて来るんじゃないだろうか。批評家は、文章は、思想なり意見なりを伝
える手段に過ぎないという甘い考え方から容易に逃れられないのだ。批評だって芸術なのだ。そこに
美がなくてはならぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ。退屈で退屈でやり切れぬ。」
(「座談/コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」)

とたたみかける。

小説、つまりフィクションが少ないのがこのbooks+コトバノイエの本棚の大きな特徴で、そうなると
いきおい画集や写真集といったアート本やエッセイや評論といったノンフィクションが多くなるわけだ
けれど、ほんとうの意味で、それ自体が美に昇華しているように感じる文章はそれほど多くはない。

だからこそときたま出会う、この洲之内徹や小林秀雄や吉本隆明や白洲正子や植草甚一や澁澤龍彦
や色川武大や寺山修司(敬称略)の珠玉のような文章を心にしっかりと留め置きたいと思うんだ。

それにしても、いちどは「そこに美がなくてはならぬ」なんて言い切ってみたいもんだ。
 

*
 

■ 仮往生伝試文    古井由吉   河出書房新社   19981124  再版

この人のエッセイを読むためだけにJRAの「優駿」を買っていた時期がある。

短編のような長編のような、随筆のような小説のような、そして現世のような来世のような、なにしろ
第一話にして平安時代の僧侶の往生伝とメジロラモーヌが同じ地平で語られるんだから、この本の
世界は、小説という形式でしかあり得ない壮大で、しかもメタフィクショナルな宇宙だ。

試文と称してはいるが、作者はイメージ上の混沌や、生と死の往還の中から何か新しいものが生ま
れることを確信しているに違いない。

読まなくてはわからない、が、読まなくてもわかることもある。

この本は、濃いぞ。
 

■ Yanagi Design   柳工業デザイン研究会編  平凡社  20080825 初版第1刷

柳宗理デザイン研究室のすべて。

良くも悪くも財団法人という組織形態でデザインのオフィスをやっているところにすべてが表れ
ているような気がします。

アノニマス(無名性)を標榜する柳さんのプロダクトデザインはとっても素晴らしいものだけれど、
独特の臭みがあるのも否めない。

それは民藝の残り香だったり、オレンジハウス的なプラグマティズムだったり。

本文で引用した小林秀雄の伝でいえば、やはりそこには美がなくてはならないんだ。
「美」に対するモノサシはひとりひとり違っていてあたりまえだから、デザイナーが「美」と感じる
ところに波長が合わなければ、「退屈で退屈でやり切れぬ。」ということになってしまうわけで。

ギリギリです。


■  悲劇の解読   吉本隆明    筑摩書房   19791210 初版第1刷

のっけからこうだ。

「批評の最大の悩み、公言するのが恥ずかしいためひそかに握りしめられている悩みは、作品となる
べきことを禁じられていることだ。そこで批評はいつも身の振り方についておもいめぐらしている。」

まな板にのせられたのは、太宰治・小林秀雄・横光利一・芥川龍之介・宮沢賢治。

最近マイブームの小林秀雄論が出ていたので興味があって読み始めたけれど、歯が立たない。

この時代の隆明さんは手ごわいなあ。


■ 三島由紀夫おぼえがき   澁澤龍彦   立風書房   19781204 初版


なんとなくふらふらっと買ってしまった澁澤龍彦さんの三島由紀夫論。
昭和36年から昭和58年までに執筆された三島由紀夫に関する文章の集成だ。

三島由起夫に関しての本は数えきれないほど出版されているけれど、澁澤さんと三島由紀夫の交友
は、なんとなく他の人とは違うような気がしないでもない(直感ですが)。

この本に載せられた二人の対談を読んでいると、三島由紀夫が3歳年下のこのディレッタントに一目
を置いていたことがよくわかるから、きっと美意識で重なる部分を感じていたんだろう。

いつもながら、この人の本は装丁、とくに紙と活字のコーディネーションが絶妙だ。


■ イームズハウス/チャールズ&レイ・イームズ    岸和郎   東京書籍  20080804第1刷

ミッドセンチュリー・デザインのアイコンとして、インテリアの分野ではスターといってもいい存在の
イームズ夫妻ですが、その建築が語られることはそれほど多くはなかったんじゃないでしょうか。

ケース・スタディハウスNo.8 ― イームズ自邸。

ダイハード・モダニスト、岸和郎さんが朝9時から夜8時までこの住宅で過ごすことによって得たこの
住宅の考察が、多数の新しい写真(by Phillippe Ruault)とともに掲載されています。

イームズハウスの「正面性」ー A-B-B グリッドの謎
斜めの視線 ー アルコーブから
外縁=エンベロープとしてのエレベーション

性格が垣間見えるような真面目な分析に好感。

「カリフォルニアの建築を解説する岸和郎」というのがなんとなくイイ感じなわけです。
 
 

 
piece.JPG


「美とは、それを観たものの発見である。創作である。」と嘯いたのは青山二郎。
それを小林秀雄が「美しい花がある、花の美しさというものはない。」と受けた。

「見立て」のことである。


□ ひとりよがりのものさし   坂田和實   新潮社   200611255刷


芸術新潮の白眉ともいえる同名の連載エッセイ(1999/01~2003/05)をまとめた美しい本だ。
内容・体裁・装幀・写真・組版・印刷どれをとっても完成度が高く素晴らしい。


50の美しいモノたちの話。


東京・目白「古道具坂田」の店主坂田和實さんが収集し、彼のアンテナに反応したものだけが
選ばれ、そして語られている。

李朝の平瓦、ドゴン族の木の扉、ブリキのヒコーキ、韓国のうなぎ取り、ダンボールの家、虫籠・・・。

それは けっして junk art なんかじゃなく、まさに「見立て」の美としかいいようのないものだ。


この本に載せられた様々なモノたちを眺めていると、千利休が朝鮮の田舎の丼鉢を「井戸茶碗」に
変身させたように、赤瀬川原平がただの階段や窓の痕跡を「トマソン」と名づけ、超芸術(自己表現
が消滅したところに作品性を感じとるところが「超」たる所以ですが)作品に仕立ててしまったように、
この人の眼がまっすぐに古道具とよばれるオブジェクトに注がれ、どこにもない美しさを発見している
ことがよくわかる。


見立て、そして目利き、骨董・古美術の世界はその概念を中心に周っている。

それはひどく日本的な美のありかただと思うけれど、何らかのメタフィジカルなプログラムなしに、
たとえば階段の手すりやブリキの茶缶やパチンコ台などを美しいものとして愛でることはできない。

 「見立て」というのは、まさにそのプログラムのひとつで、目利きなるものが存在するのは、その
プログラムが決して一般化されるものではなく、きわめて個人的な感覚(ひとりよがり)の中にしか
ないことを物語っている。

もちろん知識や経験がそのベースだけれど、最後はやはり感性の勝負、自分の眼が信じきれるか
どうかということなんだろう。

そして目利きによって見立てられたものは、利休が見立てたさまざまな茶道具たちが、茶室という
空間でこそその輝きを放ったように、彼が「しつらい」を施した空間(たとえそれがイメージの中だけ
だったとしても)に置かれてはじめて普遍的な美へと昇華する。

だからモノにたいしてこれだけの「見立て」力をもった人が、それを入れる器、私設美術館の建築へ
と向かったのは、とても自然なことのように思える。

行ったことはないけれど、「 美術館 as it is 」は、ひょっとしたら茶室そのものじゃないのかとさえ思う。


この前「手元に残したい本」をセレクトしているとき、この「見立て」ということが頭をよぎっていた。

選んだ本の中に、たぶんその本(オブジェクト)でなければ、同じタイトルの本があったとしても、
リストに残していなかっただろうと思われるものが、けっこうあることに気づいていたからだ。

もちろんそれぞれの本にまつわる個人的な記憶がそうさせたのかもしれないけれど、それよりも
やはり、その本のもっている佇まいや読まれた本(古書)としての存在感のようなものを、
セレクションのもうひとつのものさしにしたいという想いが強かった。

商売から離れ、「ひとりよがりのものさし」で見立てられた「 美術館 as it is 」の古道具のように、
「kotobanoie permanent collection」 が、もうひとつの別の棚に収まったとき、なにかしら美しい
景色になっていればいいな、なんて考えていたんだ。

できればずっと、 as it is (唯そのまま)でありたいけれど。


*

見立てのこと気にしていたら、それにまつわる本が集まってきた。

新刊本なら探して買うから当たり前のことかもしれないけれど、古本の本買は出会いだから、
こんな風にそのときの自分の興味とうまくクロスオーバーすることってそれほど多くない。

やっぱり旗を揚げてしまうことが、まず大切なんだな。

 
□ 見立ての手法 日本的空間の読解   磯崎新   鹿島出版会  19900810 初版

言語的建築というコトバがあるなら、おそらく磯崎新はその第一人者だろう。

ま・かつら・にわ・ゆか・や・かげろひ、といういかにもの6部構成のなかで、「見立て」を庭園論の
文脈で語っている。

 「『見立て』が日本の芸術のみならず、更に広範な自然認識に共通した姿勢であり、自然を観照し、
それを言語化する過程にメタフォアの作用として深く入り込んでいることも指摘可能と思われた。
それをとりあえず庭園論において語ろうとしたもので、本来は更に広範囲の作業へ展開できるとも
思われるし、数々の日本の空間の特性について論じてきた私自身の視点に深くしみこんでいる。」

まあこの人のデザインとは別の話だけどね。

□ 見立て狂い   草森紳一   フィルム・アート社   19821201 初版

まずタイトルが秀逸。

レコードもそうだけど、タイトルのセンスや体裁の良いものは、中身も濃いことが多いのは経験則。 

「見立ては、対立の関係であり、ないしは前提を条件とするが、独立したときは、前提や対立の
関係の喜びをはるかに超えた輝きをもち、見立てのノイローゼの空間を脱出している。もっとも、
めったにそうなることはない。」

 面白そうなコラムがたくさんあって、あちこちに慧眼が光っています。

調べてみるまで知らなかったんだけれど、この3月29日に亡くなられたそうだ、享年70、合掌。


□ 井戸茶碗の謎   申翰均   バジリコ   20080330 初版

新古本、これも見立てがらみである。

利休が見立てた大名物「井戸茶碗」は、果たしてほんとうに朝鮮の雑器だったのか?

 「朝鮮の雑器から美を発見し天下の名物に昇華させたのは、日本の茶人の審美眼(見立て)だ」
という定説(by 柳宗悦)に対し、この韓国の陶工は、「無為のように見えて無為ではなく、人為を
通じて無為的美しさ、すなわち自然美を素直に表現した創造的匠の精神の結果である。」と、
目利きたちの見立て論を真っ向から否定している。

日本のやきもののプロたちが、ただただ大名物と崇め、あまり触れてこなかった「井戸茶碗の正体」
に真正面から取り組んだことだけでもそうとう意義があることなんじゃないかと思う。

 歴史/文化ミステリーといってもいい快作。

□ イラスト・ルポの時代   小林泰彦   文藝春秋   20040915 初版

ひとつの60年代考現学。

 60年代後半のサンフランシスコやロンドン、パリ、そしてニューヨークで、ヒッピーと呼ばれた当時の
若者たちはどんなシャツやジャケットを着て、どんな靴で街を歩いていたのか、コンサート会場では、
マリファナはいったい何ドルで、観客にどのように売られていたのか、ややこしい文章じゃなく、
イラスト・ルポという軽妙なスタイルだからこそ伝わるリアリティが、この本の中に横溢している。

まさに、メディアはメーセージである。

取材するほうもされるほうも、なんか不思議な高揚感に満ちていたことが紙面から伝わってくる。

この泰彦さん(小林信彦さんの弟)を発見したのは、POPEYE・TARZAN・GULLIVER・BRUTUS の
名編集長石川次郎さんです。


□ ディランが街にやってきた ローリングサンダー航海日誌  サム・シェパード サンリオ 1978

昨年11月のディランのエントリーで欲しいと呟いていた希少書を、新刊古書をテーマ別に取り混ぜて
並べる "The robby" という新しいブックショップで入手できた。

これで原書と翻訳がそろったことになる。
こんな本をそんなそろえかたしているモノ好きなんて、まああまりいないだろうと思うと、なんだか少し
ウレシくて、おもわず微笑んでしまった。

けっこう高かったけれど、ただのコレクターアイテムかも。


□ THE REAL FRANK ZAPPA BOOK   FRANK ZAPPA   POSEIDON PRESS  1989

ロック界最大の怪人、FRANK ZAPPA氏の自伝、マニア必携の1冊であることは間違いありません。

ZAPPA のステージは確か2回見ているはずだ。

大阪での最初にして最後となった1976年の来日コンサートと、たぶん1978年のL.A. The Forum。

どちらのコンサートも、最初から最後まで音がずっと途切れることがなく、どこからどこまでが一曲で、
どこからどこまでがアドリブでやってるのかということさえもわからない凄いものだったけれど、
とにかくZAPPAがピョンとジャンプするたびにリズム(それも複雑な変拍子)が変わったのが、強烈に
記憶に残っている。 今から思うと、歴代ドラマーに超絶技巧の人が必要だった理由がよくわかる。

とにかく超真面目な人だったようで、才能あるオタクといってもいいかもしれない。

曰く、「宇宙には普遍的なものが2つある。水素と愚かさである」

 THIS IS FRANK ZAPPA!

 

 

 

hockney.jpg


ひとことで本というと、つい四六判や菊判といったいわゆる単行本のサイズをイメージしてしまうけれど、写真集や画集といったアート関連の本には少し大きめの版型や変形サイズのものがあって、そんな本を買ったときは、なんとなくウキウキしてしまう。
 
大きな本ってなんだか少しウレシイのだ。

そういう少し大きな本たちはたいていの場合けっこう高い定価がついていて、古本じゃないとなかなか気軽に買えないってこともその理由のひとつだけれど、なによりも少し大きめのアートコンシャスな本が自分の本棚にあると、なんとなく生活そのものがちょっとだけ豊かになったような気がしてしまうから不思議だ。


DAVID HOCKNEY の画集を買った。

正確にいうと画集ではなく、1994年に東京・香川・福島・千葉を巡回した「Hockney in California」という展覧会の図録っていうやつで、A4変形の判型に、ホックニーが26才(1963年)でカリフォルニアに渡る前に描いた「空想のカリフォルニア」から、L.A.に定住し最近に至るまでの南カリフォルニアのいろいろをモチーフにした作品たちが、California Dreaming / Getting around  / Nostalgic Returns / Another Perspective  / Making A New Space という5部構成で掲載されている。

作品の中では、70年代後半に発表されたポラロイドSX-70による「プリント・コラージュ」がとても創造性にあふれたアーティスティックな試みだと思うけれど、極めつきはなんといってもプール。
この人の描くゆらゆら揺れるプールの質感にはなんともいえないポップな詩情にあふれている。 

片岡義男が「紙のプールで泳ぐ」というエッセイでいっているように、砂漠の上に構築されたといってもいい南カリフォルニアの街並みに点在するスイミングプールは、その存在そのものが芸術といってもいいようなシュールな雰囲気をもっているし、あのバカみたいに抜けきったL.A.の空の下、そこかしこのアパートメントや住宅の庭できらきらと陽光を反射するスイミングプールを、茫然と眺めている英国人アーティストの姿が眼に浮かぶ。
きっとそのとき彼は、なんともいえない解放感とリアリティのない浮遊感の中で、柔らかに微笑んでいたはずだ。

カリフォルニア、とくにL.A.の日常風景をアンリアルに、そして切なく描いたこの本を、いつものように背表紙を向けてではなく、表紙が見えるように本棚に並べた。

display である。


-------------------------------------------------------------------------------------------------------


□ HOCKNEY in Califonia  デヴィッド・ホックニー展図録 1994  ¥2,400   FOR SALE from here

□ 紙のプールで泳ぐ  片岡義男 19851215 ISBN4-10-349003-9   ¥600   FOR SALE from here


-------------------------------------------------------------------------------------------------------


建築家石井修さんが逝去された。 

昼なお昏い目神山のご自邸で、一瞬ではあったがお会いできたのがわが身の光栄。 

矍鑠としたその姿の残像に、孤高であることの悦楽と、そして孤独を想う。    

合掌



このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうちartカテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリはarchtectureです。

次のカテゴリはbooksです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

art: 月別アーカイブ

Powered by Movable Type 4.0