booksの最近のブログ記事
久しぶりに新刊を買った、というより買わずにいられなかったと言ったほうがいいかもしれない。
■ 現な像 杉本博司 新潮社 20081220
前作「苔のむすまで」から3年ぶりのエッセイ集。
さらにamazonの巧みな計略に見事にはめられ、彼を特集したプチ写真集ともいえる写真誌も。
■ Photo GRAPHICA vol.13 /2008 winter MdN/インプレス
どちらも、金沢21世紀美術館での「歴史の歴史」展にタイミングを合わせてのもののようだ。
杉本博司は、日本人では数少ないインターナショナル・レベルのアーティストだ。
よく知られている写真だけでなく、古美術や建築にも造詣が深く(ニューヨークで10年も古美術商
をやっていたというから驚きだ)、その研ぎすまされた感性は、インスタレーション(漆喰塗りだけで
2年かかったというまるで美術館のような自邸!)や建築(直島の護王神社)にまで及んでいて、
写真家というよりは、現代美術の作家といったほうが正確だろう。
成熟した大人の art piece
彼の作品の最大の特徴は、コンセプチュアルということだろう。
たとえばデュシャンが、男性用の小便器をさかさまにして署名を施した「泉(1917)」という作品で
予言しているように、現代美術(モダニズム)が「見立て(メタフィジカルな制作という概念)」までを
包含していることは明らかで、彼のスタイルがことさらコンセプチュアルであることを強調することは
ないのかもしれないけれど、彼のメインフィールドである写真は、対象をどのように見るかという
「視点(camera eye)」そのものが表現のコアなんだから、コンセプチュアルであることはことのほか
重要な分野だと思う。
まして「ポストモダン時代を経験したポストモダン以前のモダニスト」を自認するこの人であれば、
コンセプトに忠実であるというモダニズムの基本概念が、「倫理」となって身体に宿っていても
不思議じゃない。
: Dioramas ジオラマ 1976
「虚像でも、一度写真に撮ってしまえば、実像になるのだ」
あのホールデン・コールフィールドが、妹フィービーと待ち合わせをした(「この博物館でいちばん
良かったのは、すべてのものがいつも同じところに置いてあったことだ」と彼はいっていた)ニュー
ヨークのアメリカ自然史博物館に展示してある古生物や古代人のジオラマを実像であるかのように
(片眼をとじて)撮影したシリーズ。
: Theaters 劇場 1978
「映画一本を写真で撮ったとせよ」
アメリカ各地の古い劇場やドライブインを訪れて、上映中のスクリーンを上映時間の長さだけ露光し、
そのまま印画紙に焼き付けた。
とうぜんスクリーンは時間そのものを露光し光り輝く、そして画面には劇場の姿が露に投影される。
: Seascapes 海景 1980
「原始人の見ていた風景を、現代人も同じように見ることは可能か」
「心理的タイムマシンに乗って世界中を旅をして撮った」という、まったく同じ構図のモノクロの海、
水平線が中央にある海の景色。 その海景の繰り返しが、眩暈と静寂を同時に呼び起こす。
: Architecture 建築 1997
「私は現代のはじまり(モダニズム)をその建築物から辿ってみることにした」
方法論は、無限の倍という焦点距離、物理的にあり得ない空間にピントが合ってしまうわけだから、
とうぜん被写体はボケボケに写る(「溶ける」と彼は表現している)。
優秀な建築は大ぼけ写真でも溶け残るのだという、本人曰く「建築耐久テストの旅」。
たしかにその写真には、夾雑物が取り除かれた建築の霊が映っているような感じさえする。
: In the Praise of Shadow 陰翳礼讃 1998
「蝋燭の一生を記録してみることにした」
闇の中の一本の和蠟燭が燃え尽きるまでを露光し、光の帯と影だけという写真の最小限のもの
だけを写し撮ったシリーズ、光は闇の投影にすぎない。
8 x 10 という写真の原形ともいえる大判カメラを駆使し、あるいは脳内のカメラをフルチャージして、
彼が捉えようとしてしているのは、いってみれば「時の移ろい」とでもいうべきものだろう。
幸せなことに、ぼくたちは彼が視た時間や光の残像を photograph として眺めることができる。
そしてこの新刊。
この本のあちこちに地雷が仕掛けられていることは、チラチラと眺めているだけでも感じとれる。
なかでも海面から30mのレベルの断崖に置かれるという、100m x 1レーンの水平線と一体化した
ガラスのプールは、液体に浸ることに快感を覚える人間の脳内のイメージ中枢をはげしく刺激する。
その細くて長いプールは、春分の日の日の出日の入りの方角に設定されていて、早朝泳ぐ者は
日の出ずる国を目指し、夕刻泳ぐ者は西方浄土を目指すというわけだ。
「古代の補陀落渡海のように身一つで異界を目指して渡る、そうした現代人が喪失してしまった
感性を呼び戻すための装置としてこのプールを想起したのだ。」
あくまでコンセプチュアルなのだ。
こういう毅然とした刀剣のような本の話で、この年の掉尾を飾れるのもなかなかイイもんだと思います。
年末年始はこの本で愉しめそう。
それにしても冬の金沢、蟹と温泉と杉本博司、行きてー。
*
年末の本買
どういうわけかここにきてけっこう真面目な本が集まってきました。
ついつい読みやすいモノから手をつけていってしまうので、こういうのはどこまで読めるか、ですね。
掘り出しは、濱谷浩さんの写真集と内田百閒、
濱谷浩さんの作品集は、瀧口修造から開高健までの昭和の文筆家(學藝諸家)88人の肖像を、
ストレートな眼差しで撮ったもの、これもまた、写真表現の一面でしょう。
内田百閒は、この人のちゃんとした本が欲しいとずっと思っていたんで、この装幀の良い本の初版が
入手できたのはラッキー、タイトルがシブい。
■ 絶対文藝時評宣言 蓮實重彦 河出書房新社 19940215 初版
■ 映画の構造分析 内田樹 晶文社 20030615 初版
■ マルセル・デュシャン「遺作論」以後 東野芳明 美術出版社 19900401 初版
■ 世阿弥 瀧川駿 圭文館 19620320 初版
■ 17歳のための世界と日本の見方 松岡正剛 春秋社 20070225 第7刷
■ 滞欧日記 澁澤龍彦 河出書房新社 19930205 初版
■ ヨーロッパの不思議な町 巌谷國士 筑摩書房 19900830 初版第1刷
■ 24365沖縄 24365沖縄研究会 集英社インターナショナル 20060731 初版
■ 學藝諸家 濱谷浩 岩波書店 19830325 第1刷
■ THE EARTH BOOK スイッチパブリシング 20081210 第1刷
■ 日沒閉門 内田百閒 新潮社 19710415 初版
■ 20世紀はどのようにデザインされたか 柏木博 晶文社 20020210 初版
*
ウェブサイト SPOT LIGHT ページの企画「コトバノイエの30冊」の第2弾をアップしました。
建築家矢部さんに替わって登場いただいたのは、カジュアルウェアのプレミアムブランド
「 bru na boinne 」のデザイナー辻マサヒロさんです。
気鋭のデザイナー渾身のセレクションをぜひご覧ください。
May peaceful New Year 2009 on you all .
とある美容室の本棚をつくらせてもらうことになった。
髪を切るというより、「少年マガジン」を読むためにいってた近所の散髪屋。
カットをしてもらうとき絶妙のタイミングで手渡されるパーマ屋さんの「女性自身」。
どちらも散髪のときのシーンとして心の中には残っていて、それはそれでなかなか捨てがたい情景
のような気はするけれど、その場にもっとちゃんとしたライブラリイがあっても楽しいんじゃないかと、
このブックショップをはじめたときからずっと思ってた。
一年前の「unexpectedly a serious(けっこう真面目に)」というエントリーでこんなことを書いている。
「そこに書かれている内容だけじゃなく、ブックデザインや組み合わせも含めたセレクションで、
そこに在ること自体がそのスペースやそのショップやその人の表現となるような本棚をデザインすること。
たとえば素敵なライブラリーのあるリゾートホテル、週刊誌や新聞だけじゃない歯医者さん、美しい装丁
の写真集が並んでいるブティック、エバーグリーンな随筆の置いてある輸入車ディーラー、付加価値や
差別化がマーケティングのキーワードとなっている時代に、本というものが(単にディスプレイとしてだけ
じゃなく)、そのひとつのマティリアルになることがあったっていいんじゃないだろうか。」
ホント、けっこう真面目にそんなことをずっと考えていて、この一年の間に、たとえばブックディレクター
なんていう人がTVで紹介されたり(ちょっと悔しいけど)、また実際に「旅に持っていく本」のセレクション
をさせていただいたり、なんとなくひとつのラインが見えてきたような感じがしていた矢先の依頼だった。
1200mmの3段、100冊ほどのセレクション、もちろん古本ばかりだ。
まず考えたのは、あまりマーケティングせずにおこうということだ。
最大限の効果を上げるために、そこにくるお客さんの年齢層や傾向を分析して、そういう人たちの関心の
高い分野にしぼりこんで展開するというのがプロモーションの基本だけれど、それでは教科書的すぎて
あまり面白くないし、だいいちふつうにある街の美容室にくるお客さんのための本なんて、コトバノイエの
ブックリストにあるかどうかもわからない。
かといってスペースが限られていて、ディスプレイ(背表紙だけじゃ図書館みたいだからやっぱり何冊かは
表を向けて並べたい)のことも考えると、あまり総花的なセレクションだと全体がボヤけてしまいそうだし。
まず小説ははずそう、
シチュエーションから考えると、どこから読み始めてどこで終わってもいいものというのがひとつのモノサシ
になりそうだから、物語は不向きだ。
大きくて重い本もちょっと。
家庭画報でさえ少し重く感じるみたいだから、大型のハードカバーや横長の写真集なんかはよくないだろう。
ウダウダとこんなことを考えているうちに、とにかくふだんあまり馴染みのない本を手に取ることで、
ちょっとした非日常みたいなものを感じてもらえることができたら、それでいいんじゃないかと腹を括った、
あれやこれや頭の中で考えていてもしかたない、選ぶ本が表現なんだから。
写真集・画集/詩集/旅の本/大人の絵本/上質のエッセイ/個性的な雑誌
そんな風にして、この六つのセグメントができた。
そして選んだ本はこんな感じ。
book list for Hair Salon Smile Seed ( extract )
■ Hockney in California David Hockney アートアート・ライフ編
■ 波の絵、波の話 稲越功一・村上春樹 文藝春秋
■ PUPPIES WILLIAM WEGMAN HYPERION
■ 空に書く ジョン・レノン 筑摩書房
■ 手紙 谷川 俊太郎 集英社
■ やきものを買う旅 婦人画報社
■ 近江路散歩 司馬遼太郎ほか 新潮社
■ 白州正子と楽しむ旅 白州正子 新潮社
■ 風の又三郎 宮澤賢治 羽田書店
■ 哲学のえほん 植村光雄 PHP研究所
■ 森の絵本 長田弘 講談社
■ 暮しの愉しみ 向田邦子 新潮社
■ 庭仕事の愉しみ ヘルマン・ヘッセ 草思社
■ ねこに未来はない 長田弘 晶文社
■ ポートレイト・イン・ジャズ 村上春樹/和田誠 新潮社
■ 散歩のとき何か食べたくなって 池波正太郎 平凡社
■ 和楽 2001/11月号 小学館
■ Arne 2006-9-15/No.17 イオグラフィック
■ wallpaper december 1999 a Time Warner Company
■ 庭と花の手帖 2000年版 暮しの手帖社
こんな本が美容室のウェイティング・スペースに置いてあったらちょっと楽しいと思うんだけど。
本の入れ替えを月単位でやっていくことになっている。
何回かやっているうちに、なにかもう少しはっきりしたものが、見えてくるんじゃないかと思う。
なんにしても、it will take for a while(10年早い)と思っていたことのひとつが実現したのはとてもウレシイ。
本買記ならぬ本選記の顛末、いろいろと難しい。
小説を読みたいと思った。
年齢のあまり違わない知己の唐突な死や、ステージ4/余命2年と宣告されたという遠縁のことが重なり、
目の前の「死」というものにたいして、たとえば余命を宣告されたその人になにか本を届けようと考えたとき、
それは決して闘病記のようなノンフィクショ ンではなく、小説、それも時代を超えて読みつがれてきた
古典といわれる作品じゃないかと思ったからだ。
リアルな死を前にすると、ひょっとしたら「祈り」ってやつが唯一の救いなのかもしれないけれど、
「阿弥陀仏」や「Amen」ではなく、クラシックとよばれている文学作品(=本)や音楽や絵画といった、
人が表現したものの中にこそ、生きることをポジティブに感じさせるパワーがあると、信じたい。
とはいうものの、あらためてそれが何なんだと考えると、正直なところよくわからない。
わからないままに本棚をさまよい、このタイトルにいきあたった。
■ 何を見ても何かを思い出す アーネスト・ヘミングウェイ 新潮社 19930910 1刷
― I guess everything reminds you of something
それはほんの10分足らずで読みきれるスケッチのような掌編で、息子の小さな裏切りのエピソードを
シンプルな文体で綴ったモノローグだけれど、ひとの心のなかに否応なしに去来する空白(void)を
過不足なく、しかも繊細に描ききっていて、上質の文学だけがもっている抽象力があった。
一読するとそれは苦い記憶の物語のように思えるけれど、読み終えてしばらくたつと、
ヘミングウェイが巧妙に、愛するものの不在(=死)というテーマを潜ませていることに気づく。
remind = re-mind
思い出させるこころ。
すべてのものがあなたに何かを思い起こさせる。
こうやって書きながら気づいたことだけど、死とは「ここにいない」ということだ。
あたりまえのように在ったものがある日突然どこかに消えてしまったとき、
遺されたすべてのものが、何かを思い起こさせる。
残されたものは、遺されたものによって、あなたが「ここにいない」ことに気づく。
そう考えると「ここにいない」ことは、それほど淋しいことじゃないのかもしれない。
if something of me reminds you of something once in a while,
それが旅であろうと、死であろうと
Memento mori
*
■ Abstract Reality デニス・ホッパー 光琳社出版 19980903 初版
デニス・ホッパーが写真集をだしてるなんて知らなかった。
「抽象的現実」、立体を映しているのに絵画のように平面的な写真たち。
Nikon28mmによる見立て。
まるで抽象画のような60葉の写真を、ホッパーは「禅のタブレット」といっている。
サービス精神の旺盛な役者のことだから、それはおそらく日本版に向けたメッセージだろうけれど、
静謐ともいえるその画像には、表現者としての自信のようなものが見てとれる。
撮ることも撮られることも同じアートなんだよ、なんて嘯いていそうだ。
できれば実物のその「tablet」を、オリジナルサイズの 14 x 9 inches で見てみたい。
多才。
■ 半眼訥訥 高村薫 文藝春秋 20000230 第1刷
笑わない人高村薫初のコラム集。
まだぜんぶ読んだわけじゃないけれど、目次を眺めているだけでちょっとウレシくなった。
文庫化にあたっての大改稿の秘密。
「家のつぶやき」というタイトルで一章を割かれた住宅論。
わたくしのなかの大阪と題する大阪弁論。
ルポルタージュ、そしてブラームスについて語ったエッセイ。
小説という緊張感のある舞台からこぼれ落ちた高村さんの「素」が垣間見えそうで。
読めば止まらなくなる、たぶん。
硬派。
■ 輝く日の宮 丸谷才一 講談社 20030610 第1刷
日本語の人の日本小説、2003年の朝日賞・泉鏡花賞受賞作。
「輝く日の宮」というのは、源氏物語の「桐壺」と「帚木」の間の失われた幻の一帖だそうです。
この本では女性国文学者を狂言まわしにして、源氏物語はもちろん、古今集、芭蕉、武蔵、学会など
日本文学や日本にまつわる様々な考察があり、あげく最後の章ではこの幻の一帖を自らが書き加えて
しまうところまで白熱、また、この本の7章のすべてを異なる形式、文体で描くという超絶技巧も見どころ
(読みどころ)のひとつでしょう。
エッセイであれ書評であれ小説であれ、よく推敲されたこの人の語り口には、成熟した大人の味わい
のようなものを感じます。
やはり文体こそが文章家の命なのかな。
軽みのあるエッセイが、個人的には好みです。
円熟。
■ 傷みのシャンデリア 草間彌生 ペヨトル工房 19890110 初版
79才現役、75才のヨーコ・オノとはきっと仲が良くないだろう。
貌はひたすらこわい、岡本太郎クラスの眼力。
実際の作品は直島の黄色い水玉カボチャ「南瓜」くらいしか観たことはありませんが、その印象は鮮烈。
モチーフによく使われる網の目や水玉の集合は、子供の頃から日常的に見えるものだったということ
ですから、なにか違うものが視えている異形の人としかいいようがありません。
「赤や緑や黄の水玉模様は地球のマルでも太陽のマルでも月のマルでもいい。形式や意味づけは
どうでもいいのである。人体に水玉模様をえがくことによって、その人は自己を消滅し、宇宙の自然に
かえるのだ。」
ペヨーテが由来というインディ出版社から発刊されたこの小説、気配からするとSMをモチーフにした
pornographic なラブ・ストーリー、「昔、ボニー&クライド。いま、ギンコ&トミー」なんていう
いかにも80年代的なコピーが帯にありますが、もちろんご本人や小説の内容とは関係ありません。
異才。
*
RSS( あるいは Atom )というたいへん便利なシステムで購読(ちょっとへんな言葉だなあ)している
いくつかのブログを眺めていると、いわゆる日々の徒然を日記風にというのが主流で、みなさんたい
へんマメに更新していらっしゃる。
日記風を読むことは、なんか覗き見の気配もあって、それなりに楽しいんだけれど、読ませる工夫の
ない垂れ流しのモノローグや自己陶酔に、辟易とすることもたまにあって(まあTVと同じで文句がある
なら見なきゃいいんだろうけれど)そういうことがあると、そんなことべつに公開しなくてもいいん
逆にいうと、「垂れ流しのモノローグ」にならない日記風のブログを続けられる自信がないわけで。
それもほぼ everyday なんて驚異的としかいいようがない。
なんか不思議なメディアだなあと思う。
「書きたい」人がこんなにいたことも驚きだし、このたくさんの「書きたい」人たちは、このブログという
メディアができるまでどうしてたんだろう、そして「書きたい」人たちはこのまま書き続けるんだろうか、
などと思いつつ。
*
柳の下の2匹目の泥鰌かもしれない。
「だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ」に続き、題名の長い本を手に入れた。
こういうシンクロニシティーには、3回目まではつきあうべきだ、というのが経験則。
べつに合理的な根拠があるわけじゃないけれど、2度あることが3度あるのは統計学的な真実だ。
■ 洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵 洲之内徹 求龍堂 20080610 初版
小林秀雄から「いま一番の批評家は洲之内徹だね」と激賞され、青山二郎から「『芸術新潮』では、
洲之内しか読まない」とまで言われたエッセイ「気まぐれ美術館」。
洲之内徹は銀座「現代画廊」のオーナーで美術評論家、1987年に亡くなったあと、彼のアパートメント
に残された146点の絵画が「洲之内コレクション」として宮城県美術館に収蔵されている。
この本は、そのコレクションのカラー図版と、その絵にまつわる洲之内さんの文章からなる画文集だ。
「一処不在の私の、絵が故郷なのだ。」と語る無頼の人にとっては不本意な結末かもしれないけれど、
「盗んでも自分のものにしたかった」ほどに惚れ込み、「ともかく好きな画家、好きな絵だけを選び、
とくに人口に膾炙していない画家の発掘には、どんなところに出向いても交渉し、執拗な入手を果た
している(by 松岡正剛)」といわれたコレクションを目の当たりにできることは僥倖というべきだし、
その146点の絵画たちが、「気まぐれ美術館」や「帰りたい風景」の滋味深い文章とともにカラーで
掲載されたこの本は、muse からのプレゼントのようなものじゃないかと思う。
洲之内さんのキュレイションは one and only 、それは「目利き」というより「偏愛」を感じさせる。
個々に見ていくと、思い入れが強すぎてそれほどピンとこない作品もあるけれど、いわゆる批評から
一歩も二歩も深みのある文章が重ねられたとたんその絵は輝きだし、いわば画文一体とでもいうべ
き境地にはいったその作品は、画家の手を離れ、洲之内藝術と化す。
「利行(長谷川利行)のタッチはひょろひょろしているようでひょろひょろでなく、へなへなのようで
へなへなでなく、形はでたらめのようででたらめでなく、利行独得の澄んだリズムを持ち、妖しく美しい
フォルムになっている。ところが偽作の利行は、利行らしく見せようとして、ひょろひょろを真似する
からほんとにひょろひょろになってしまい、でたらめを真似してでたらめになってしまう。そして、その
ひょろひょろとでたらめを利行だとおもっている人が、いつもその偽作に騙されるということになる。」
(気まぐれ美術館)
この前のエントリーで書評のことを書いたときにも感じたことだけれど、批評のリアリティは作品への
「尊敬(=愛)」からしか生まれてこないんじゃないかと思う。
小林秀雄がこんな風に言っている。
「いい批評はみな尊敬の念から生れている。これは批評の歴史が証明している。人を軽蔑する批評
はやさしい し、評家はそれで決して偉くならぬ。発達もない、創造もないのです。フランスにも
admirer, c'est egaler(敬服するとは匹敵することだ)という諺がある。」
そしてさらに
「真っ白な原稿用紙を拡げて、何を書くか分らないで、詩でも書くような批評も書けぬものか。例えば、
バッハがポンと一つ音を打つでしょう。その音の共鳴性を辿って、そこにフーガという形が出来上る。
あんな風な批評文も書けないものかねえ。即興というものは一番やさしいが、又一番難かしい。文章
が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような
文章が書ければ、文章は生きて来るんじゃないだろうか。批評家は、文章は、思想なり意見なりを伝
える手段に過ぎないという甘い考え方から容易に逃れられないのだ。批評だって芸術なのだ。そこに
美がなくてはならぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ。退屈で退屈でやり切れぬ。」
(「座談/コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」)
とたたみかける。
小説、つまりフィクションが少ないのがこのbooks+コトバノイエの本棚の大きな特徴で、そうなると
いきおい画集や写真集といったアート本やエッセイや評論といったノンフィクションが多くなるわけだ
けれど、ほんとうの意味で、それ自体が美に昇華しているように感じる文章はそれほど多くはない。
だからこそときたま出会う、この洲之内徹や小林秀雄や吉本隆明や白洲正子や植草甚一や澁澤龍彦
や色川武大や寺山修司(敬称略)の珠玉のような文章を心にしっかりと留め置きたいと思うんだ。
それにしても、いちどは「そこに美がなくてはならぬ」なんて言い切ってみたいもんだ。
*
■ 仮往生伝試文 古井由吉 河出書房新社 19981124 再版
この人のエッセイを読むためだけにJRAの「優駿」を買っていた時期がある。
短編のような長編のような、随筆のような小説のような、そして現世のような来世のような、なにしろ
第一話にして平安時代の僧侶の往生伝とメジロラモーヌが同じ地平で語られるんだから、この本の
世界は、小説という形式でしかあり得ない壮大で、しかもメタフィクショナルな宇宙だ。
試文と称してはいるが、作者はイメージ上の混沌や、生と死の往還の中から何か新しいものが生ま
れることを確信しているに違いない。
読まなくてはわからない、が、読まなくてもわかることもある。
この本は、濃いぞ。
■ Yanagi Design 柳工業デザイン研究会編 平凡社 20080825 初版第1刷
柳宗理デザイン研究室のすべて。
良くも悪くも財団法人という組織形態でデザインのオフィスをやっているところにすべてが表れ
ているような気がします。
アノニマス(無名性)を標榜する柳さんのプロダクトデザインはとっても素晴らしいものだけれど、
独特の臭みがあるのも否めない。
それは民藝の残り香だったり、オレンジハウス的なプラグマティズムだったり。
本文で引用した小林秀雄の伝でいえば、やはりそこには美がなくてはならないんだ。
「美」に対するモノサシはひとりひとり違っていてあたりまえだから、デザイナーが「美」と感じる
ところに波長が合わなければ、「退屈で退屈でやり切れぬ。」ということになってしまうわけで。
ギリギリです。
■ 悲劇の解読 吉本隆明 筑摩書房 19791210 初版第1刷
のっけからこうだ。
「批評の最大の悩み、公言するのが恥ずかしいためひそかに握りしめられている悩みは、作品となる
べきことを禁じられていることだ。そこで批評はいつも身の振り方についておもいめぐらしている。」
まな板にのせられたのは、太宰治・小林秀雄・横光利一・芥川龍之介・宮沢賢治。
最近マイブームの小林秀雄論が出ていたので興味があって読み始めたけれど、歯が立たない。
この時代の隆明さんは手ごわいなあ。
■ 三島由紀夫おぼえがき 澁澤龍彦 立風書房 19781204 初版
なんとなくふらふらっと買ってしまった澁澤龍彦さんの三島由紀夫論。
昭和36年から昭和58年までに執筆された三島由紀夫に関する文章の集成だ。
三島由起夫に関しての本は数えきれないほど出版されているけれど、澁澤さんと三島由紀夫の交友
は、なんとなく他の人とは違うような気がしないでもない(直感ですが)。
この本に載せられた二人の対談を読んでいると、三島由紀夫が3歳年下のこのディレッタントに一目
を置いていたことがよくわかるから、きっと美意識で重なる部分を感じていたんだろう。
いつもながら、この人の本は装丁、とくに紙と活字のコーディネーションが絶妙だ。
■ イームズハウス/チャールズ&レイ・イームズ 岸和郎 東京書籍 20080804第1刷
ミッドセンチュリー・デザインのアイコンとして、インテリアの分野ではスターといってもいい存在の
イームズ夫妻ですが、その建築が語られることはそれほど多くはなかったんじゃないでしょうか。
ケース・スタディハウスNo.8 ― イームズ自邸。
ダイハード・モダニスト、岸和郎さんが朝9時から夜8時までこの住宅で過ごすことによって得たこの
住宅の考察が、多数の新しい写真(by Phillippe Ruault)とともに掲載されています。
イームズハウスの「正面性」ー A-B-B グリッドの謎
斜めの視線 ー アルコーブから
外縁=エンベロープとしてのエレベーション
性格が垣間見えるような真面目な分析に好感。
「カリフォルニアの建築を解説する岸和郎」というのがなんとなくイイ感じなわけです。
なんともシビレる男前なフレーズ。
こんな風にピンポイントに胸に突き刺さってくる言葉に出会うことは、それほど多くはない。
しかもそれが本のタイトルなんだから、これはもう買うしかない。
■ だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ 都築響一 晶文社 20080228 初版
しかも帯にはこうある、「そんなに買って、読めるのか!」
that's it, you are absolutely right Kyou !
べつに何を探すでもなく、深夜朦朧として amazon をさまよい歩くうちにたどり着いた一冊だけれど、
今手元にあるこの本を眺めていると、なんとなくこの本がもっている目に見えない引力に呼び込まれ
たような気がしてしかたがない。
いってしまえば、コトバノイエの本のすべてが、こういった必然ともいえる偶然のめぐりあいの残滓だが、
そのタイトルにシンパシーを感じて手に入れるのは、ちょっと気分がちがう。
しかもそれがクリックひとつで、いつの間にか手元に届いてるっていうこのハイパー感。
すべての本に作者や編集者がいて、そのどれもに書かなければならなかった理由や、書籍という
カタチにして世に問いたい思い入れみたいなものがあるわけだけれど、それを買わなきゃならない
と思う人がいつもいるわけじゃない。
本と人との出会いは、たまたまだったり、なんとなくだったり、これしかないだったり、出会い頭
だったり、いやいやながらだったり、そんな気なかったのにだったり、ある日突然だったり、僭越
ながらだったり、まあ100あれば100のシチュエーションがあるわけだけれど、本を読むこと、そして
買うことが好きな人にとって、「だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ」 という
このメッセージは、ど真ん中のストレートなんじゃないかと思う。
しかもそれが古本だとしたら、それは純粋に「だれも買わない本」じゃなくて、「だれも買わない本」
のバツイチのようなものだから、いっそうコクが深い。
本買人の心意気はこうだ、 だれも買わないかもしれないけれど、面白そうならオレは買うよ。
「読書と人生のリアリティ」と名づけられた、この本の序に曰く、
「似合わないよ、それ!」とみんなに笑われて、
でも大好きな服だから、
いつまでたっても、いくつになっても着つづけてる人たち・・・
40代のゴスロリ少女や、60代の長髪ロックじじいや、
そのほかたくさんの
" いい歳して、まわりが見えてない " 人たち。
そういうふうに本とつきあえたらと、いつも思う。
「読むべき本」じゃなくて、
「読みたい本だけを全力で追いつづけること。
それが世間的にどんな恥ずかしい本であっても、
他の本で隠してレジに持っていったりしないこと。
満員電車の中でも、堂々と開いて読むこと。
紀伊國屋のカバーなんか、かけないこと!
そういう読書人に、僕はなりたい。
そう、本は、どこかの本棚でいつも待ってるんだ。
売れる売れない、買う買わないは、ただのなりゆきにしかすぎない。
書評はブックセレクションでもある。
ブックセレクションは、思想やライフスタイルの反映でもあるわけだから、この書評集にとりあげ
られたいささかマイナーな本たちは、そのまま著者である都築さんの life につながっている。
都築響一さんは1956年生まれ、フリーランスのライター・編集者でありながら、写真家としても
「ROADSIDE JAPAN - 珍日本紀行」という作品で木村伊兵衛賞を受賞している手練。
この人の仕事の総体をサブカルチャー/B級好みと括るのは簡単なことだけれど、ひとつひとつ
の仕事を検証してみると、ひとつの大きな関心として、マイナーなのに存在感のあるもの、という
テーマが浮かびあがってくる。 きっとそれが彼にとっての「リアル」なんだろう。
この最新の著作(少し前のものかと思っていたら今年に入ってからの刊行だった)でも、その
「リアル」のモノサシにそった本や本屋が集まっていて、そういう意味で、この「だれも買わない」
本たちは、彼にとっての珠玉といってもいいのかもしれない。
そしてなによりも自腹で買って評するという、今や凡百の文筆家たちがとっくに忘れ去っていると
思われる批評の原則を貫きとおしているそのスタイルに、この人のROCKを感じる。
「おぞましい」という言葉にこだわって朝日新聞の書評を蹴っ飛ばすところなんかは、なかなか。
「路傍に転がる真実」か。
眼が濁っていたら、偏在する真実はけっして見えてこないんだろうな。
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夏の終わり、野暮用にまみれていつもの本買ができず、禁断症状を不得手なネットで紛らす。
そうしてなんとなく集まったのが上記を含めた何冊かの本や本屋にまつわる本。
気がつくといずれも晶文社の本、してみるとさまよい歩いたのは晶文社の森であったのか。
不如意、仏の手で踊る孫悟空のような気分である。
来月は買うぞ。
■ 古本屋月の輪書林 高橋徹 晶文社 19980805 3刷
■ ボマルツォのどんぐり 扉野良人 晶文社 20080420 初版
