books: 2009年3月アーカイブ
なんかもうちょっと素軽く書けないもんかなあと、いつも思ってる。
このブログのことなんだけど。
静やかに、でも軽やかになんていうのが理想的なんだろうけれど、日記さえ綴ったことの
ない者にとって、それはなかなかの難物だ。
別に「自分メディア」であるブログに、制約なんてつける必要はないんだけれど、なにかしら
「モノサシ」のようなものがないと、とりとめがなくなってしまうんじゃないかなんて変なことを
考えて、くだらない「決めごと」を勝手につくったりしているもんだから、なおさら。
たぶん文章を書くということに、ちょっと意識過剰なんだな。
書いておきたいなあと思うことはいくつもあるんだけれど、書き始めるとどれもがつまらなく
感じてしまったり。
だいたいこんなおかしな文章を書きだすのに、10日もかかってるのがなんとも口惜しい。
図書カードの顛末でも。
図書カードは5000円、コトバノイエの雑誌取材の謝礼としていただいたものだった。
このまえK伊國屋書店で買いそびれた時点で、できるだけいいかげんに、成り行きまかせ
に使ってやろうと決めていた。 金額も中途半端だし、あまり狙いを定めないで、古本と同じ
感覚で店に入り、適当にピックアップして結果5000円っていう感じならいいかなんて。
で、けっきょく買ったのはこの2冊、at 某ショッピングセンターのふつーの本屋。
■ 家づくりのきまりとくふう 堀啓二 インデックス・コミュニケーションズ 20060930第1刷
■ 拡大の美 日本が愛した焼きもの 講談社編 講談社 20071025第1刷
前者が1800円、後者が3200円、消費税を加えると5250円で、ポケットから小銭をだした。
「家づくりのきまりとくふう」は、依頼を受けていた某社の本棚づくりのためのものだ。
たとえばこれから家を建てようとする若い人たちが、間取りや家具のことを考える前に
(楽しいからついそっちにいってしまうんだけど)、読んでくれたらいいなあと思える一冊で、
住宅の構造や建設の法令のことを、こんな風にわかりやすく教えてくれる本は案外少ない
んじゃないかなあと思う、というか、あまり見たことがない。
この本は何年か前、青木淳氏のアルマジロ裁判で話題になった「くうねるところにすむところ」
という叢書の中の一冊。
サブタイトルに「子どもたちに伝えたい家の本」とあるように、建築家やクリエイターが、子供
の目線を意識しながら、それぞれの文脈で「家」のあれこれを語るというコンセプトで造られ
ているシリーズで、どの本もいちおう絵本の体裁をとっているから、一見優しい表情に見える
けれど、じつは住宅や建築の根源に鋭く迫っているところが数多くあって、ふつうの言葉で、
シンプルに表現されたものだからこそ、ものごとの本質や著者の個性が、鮮やかに映しださ
れるということを見透した編集者の手腕は、なかなかのものじゃないかと思う。
人選やブックデザインも秀逸で、編集の力と出版文化の気概を感じさせてくれる良質の叢書、
この一連の仕事で、編集者が芦原義信賞を受賞したというのも頷ける。
「くうねるところにすむところ ー 子どもたちに伝えたい家の本」
01・家ってなんだろう/益子義弘
02・家のきおく/みかんぐみ
03・オキナワの家/伊礼智
04・家族をつくった家/芦原太郎
05・集まって住む/元倉眞琴
06・物語のある家/妹島和世
07・地球と生きる家/野沢正光
08・みちの家/伊東豊雄
09・中心のある家/阿部勤
10・素材の実験/隈研吾
11・家と土地をうけつぐ/更田邦彦
12・向こう三軒両隣り/田中敏溥
13・家の顔/片山和俊
14・家の?/青木 淳
15・ぼくの居場所/竹山 実
16・もうひとつの家/高松伸
17・わらの家/大岩剛一
18・両親と祖母の家をつくる/井上搖子
19・家づくりのきまりとくふう/堀啓ニ
20・窓のある家/千葉学
21・ドラゴン・リリーさんの家の調査/山本理顕
22・家と身体/ 鈴木恂
23・家のいごこち/堀越英嗣
24・まちを生きる家/石田敏明
25・家を保つ/石田信男
できればぜんぶ揃えたい、ちょっと高いけど。
そしてもうひとつの「拡大の美 日本が愛した焼きもの」、こいつは凄い。
たまたま手に取ってパラパラッと眺めたとたんに圧倒された。
たぶんこんなのは古本には出てこない。
いただきものの図書カードでもなければ、なかなか買える本じゃないと思ったので即買い。
いい本には必然的に巡りあうものなのだった。
焼きものの写真集である。
登場するのは名うての名品、国宝・重文クラスばかり、凄いのはそのおそらく世界でも
最高峰の焼きものを、現在考えられる最高の機材(3900万画素の高精細デジタルパック
「フェーズワンP45」をセットしたHasselblad503CW+Carl Zeiss Makro-Planar 120mm)で、
接写撮影(by 西川茂さん)しているということ、もちろん印刷も最新鋭、最高精度のものだ。
とにかく土と釉の美しさをこれほど精緻に撮った画像を見たことがない。
けっして人間の眼では見えない世界だし、そもそもこれらの名品を、美術館のガラス越し
でなく見ることは、ほぼ不可能だ。
建築と同じで、ディティールに神は宿るのだ。
焼きものは、最後のところで「炎」という人智のおよばないものに身を委ねなければ成り立た
ない芸術だから、こうやって細部の美しさを見せつけられてしまうと、いっそう見えざるものの
存在を感じずにおれない。
「織部」のすいこまれるように奥深い透明感をもった緑、泡立った釉薬を肌にそのままとどめ、
長石の乳白と鉄の緋色が月面のような模様を描く鼠志野の茶碗「峯紅葉」、そしてまさに
宇宙としか表現できない「曜変天目」の妖しい蒼光、茶筅のあとも生々しい。
とにかくすべてが美しい。
織部四方手鉢
鼠志野茶碗 「峯紅葉」
黒織部菊文茶碗
曜変天目
黄瀬戸菊菖蒲文輪花鉢
伊賀水指 「破袋」
志野茶碗 「通天」
備前花入 「太郎庵」
備前緋襷水指
信楽蹲壷
色絵芥子文茶壺 野々村仁清
銹絵染付金銀白彩松波文蓋物 尾形乾山
赤楽茶碗 「寒菊」 楽家三代道入
黒楽茶碗 「山の端」 楽家三代道入
初期伊万里染付吹墨兎文皿
色絵芙蓉手花鳥文皿
柿右衛門 色絵菊文壷
柿右衛門 色絵椿文深鉢
鍋島 色絵宝尽し文八角皿
鍋島 色絵青海波牡丹文皿
鍋島 青磁染付桃図皿
金襴手 色絵荒磯文鉢
葆光彩磁妙音紋様大花瓶 板谷波山
一目瞭然、見ればわかる。
*
■ ルゥーシー・リィー 三宅一生監修 求龍堂 20090213初版
焼きものが続く。
1989年に三宅一生のプロデュース、安藤忠雄の会場構成で開催された日本で始めての
「ルゥーシー・リィー展」の図録、六本木の21_21 DESIGN SIGHTで5月10日まで開催され
ている「U-Tsu-Wa/うつわ」展に合わせて復刻されたものだ。
古本でもなかなか手に入りにくかったこの図録の復刻は、素直にウレシイ。
凛としたフォルムとニュアンスに富んだ釉薬のテクスチュア、路傍にころがる石のような
ルーシー・リィーの器には、人の心にあたたかさやなつかしさを呼び起こす力があるんだ。
なによりも、可愛いおばあちゃんの小さな手で丹念に造られているっていうことが素敵だ。
くだくだというよりも、彼女のこのメッセージがすべてを語っている。
May you share in the adventure of the making.
新刊で注文しました。
■ 錯乱のニューヨーク レム・コールハース 筑摩書房 19951025初版第1刷
今週はこの本が買えただけで大満足。
建築ではなく、ふだんあまりちゃんと見ない海外文学の棚で発見した。
今をときめく最先端の建築家によるニューヨーク論。
コールハースがまだ作品のない建築家だった1978年の著作で、1994年まで絶版になって
いた(建築の実務に専念したかったからというのが本人の弁)という「幻」の一冊です。
新刊はもちろん高いし、古本も数が少なく高値をキープしている本ですから、欲しくてもなか
なか手にすることができない一冊でした。
サブタイトルが、A Retroactive Manifest for Manhattan(マンハッタンのための回顧的マニ
フェスト)、書いてあることがちゃんと理解できるかどうかは微妙なところですが、本棚での
存在感だけで充分価値がありそうな本だと思います。
books are not just for reading.
マンハッタニズムなるものの誕生と滅亡、摩天楼の哲学。
なんとなく十九世紀パリを論じたベンヤミンのパサージュ論がオーバーラップします。
錯乱しているのは、じつはこのオランダ人自身じゃないのか。
■ 九つの小さな物語 富岡多恵子 大和書房 19751220 初版
読めないままにどんどん増殖していく富岡本。
この本はサリンジャーの「Nine Stories」となにか関連があるのかな。
湯村輝彦のジャケットデザインと挿画が印象的な一冊、B6変形の造本も小さくてカワイイ。
「いずれもお話や物語ではなく、小説のつもりで書いたものばかりである。-------おもしろい
草双紙になるかならぬかは、絵よりも先に、小説の態度にかかっているのはいうまでもない
ことである。」
この潔さが、この人の資質じゃないかと思うわけです。
A子のカラス
闇のまわりに灯をつけて
原始生活
ビフテキ
遺産の利子
希望と絶望
決闘
人形遣い
ハタチか二十一か二十二の男と三十五か六か七に見える女
九つの「あやかし」たち、題名だけで、ちょっとしたトリップ。
■ 60's アメリカン・アドバタイジング All American Ads ジム・ハイマン TASCHEN 2002
大型フルカラーのハードカバー、当時のアメリカの雑誌や新聞に掲載された広告が、大量
に掲載されていて、ひどく重い。
広告の歴史は欲望の歴史だ。
アメリカの60年代の広告には、アメリカの欲望が詰まっているし、世界はそれに憧れた。
American way of life っていうやつだ。
明るく、楽天的で、ウィットに富んだキャッチコピーとカラフルな映像。
「60年代、[売り込み]の定義は、陳腐な言葉とビジュアルを駆使して頭ごなしに消費者を
やりこめようというものから、受け手が広告を好きになれるようにという意図のもと、創造
的でちゃめっ気のあるものへと変化した。 そしてその手法はうまくいったのだ」
「Colorful capitalism - Ads that read like pulp fiction」っていうこの本のキャッチコピーが
その感じをうまく表している。
その圧倒的な物量は、今はもう存在しないリッチで楽天的なアメリカそのものだし、この
商品(=金)の洪水に、嫌気をさす人たちが現れたのは、必然のように思える。
若者たちは、このColorful capitalism に NO ! と宣言し、精神世界や自然主義に傾倒した。
振り返ってみると、それはリッチネスを背景にした甘~い反抗、まあ「ボンボンのヤンチャ」の
ようなものだったかもしれないけれど、そのときに生まれた価値観が、この21世紀にひとつの
メインストリームになろうとしているんだから、まんざら無意味だったとは言い切れないよね。
A Time Capsule
*
最近追加した「本を特集した雑誌」のブックリスト
SPOT LIGHT 特集企画第三弾、「 木村工務店の木村貴一さんが選んだコトバノイエの30冊」開催中。
コトバノイエを建てていただいた「匠」による渾身のセレクションをぜひご覧ください。
すごく久しぶりに、K伊國屋書店に行く機会があった。
図書カードなるものをいただいたので、それを使ってやろうと目論んで、1時間ほどあれこれ
広大な店内をさまよいながら物色したけれど、何を買ったらいいのかわからない、というか
買う本が一冊もない。
ぼやっと、新刊で買うならこれと考えていた本は置いていないし、 ちょっと面白そうな本には
まるで買う気のおこらないプライスタグがついていたり、いろんなネガティブな理由はあるんだ
けれど、なんとなくこの店で買う気がしなかった、というのが正直なところ。
こんな風な本買いのむつかしさに直面したのは初めてのことで、ちょっと戸惑ってしまった。
本屋に行って何も買わずに出てくるなんて、ちょっと考えられない。
欲しい本はいっぱいあるはずなのに、大阪でも屈指の大型店に買うものがないっていうのは
いったいどういうことなんだろう。
きっと本にたいする情報量や販売のためのソフトが決定的に不足しているのだ。
というか、いつのまにかああいう本の売り方に満足できなくなってしまったんだろうと思う。
たとえばamazon は膨大なストック(モニター上での)を背景に、マーケットプレイスという、
既存の本屋だけじゃなく、個人をも巻き込んだ古本のアウトソース(その結果とんでもない
ダンピングがおこっていたり、いんちきなレアものがヒートアップしていたりするわけですが)
や、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」といったリコメンデーションの機能、
そして読んだ人の投稿レヴュー(ここのシロウトレヴュワーたちは、したり顔の作品解説や、
好き嫌いのことばかりで、Y部さんがいうように、「ぜんぜんあてにならない」んだけれど、
迷っているときには、あの「★」が背中を一押ししてくれたりすることがあったりするわけで)、
といった一冊の本にまつわる様々な情報のシステムが張り巡らされていて、本屋で見て
amazonで買うなんていうスタイルさえ存在するし、 セレクト型のブックショップ、たとえば
三月書房なら、そこにはどんな本がそろっているかということが だいたいわかっていて、
そこへ行くために行くわけだから、最初から買うものがほとんど決まってるといってもいい。
そんな買いかたに慣れてしまったら、こういう大型店のただ百花繚乱的な展開がつまらなく
なるのは、あたりまえのことなのかもしれない。
そう考えると、総合大型書店というのは、じつはほとんど存在の基盤を失っていて、それは
流通業で百貨店が行き詰まっているのと、とても良く似ている。
百貨店は基本的には不動産業だから、in-shop という専門業態を導入することで少しだけ
生き長らえることができたけれど(でも結局それは自らの存在理由を見失うことになった)、
大型書店にはそんな苦し紛れの救命策さえないように思えてしまう。
恐竜は滅びるんだ、きっと。
大きな身体にはたくさんの食べ物が必要で、食べ物がいつもそこにあるとは限らないから。
amazon にそういう印象がないのは、あまりにも巨大すぎるからか、 あるいは個体ではなく
ひとつの「系」として、増殖し続けているからかもしれないと、ふと思う。
amazon にスポイルされちゃったかな、ひょっとして。
で、そんな amazon からやってきたある一冊の中の、ちょっと気になるコラム。
「読者の権利 10ヶ条」というものだ。
■ 奔放な読書 ダニエル・ペナック 藤原書店 19930425 初版第2刷
それはこんな風だ。
01. 読まない
02. 飛ばし読みする
03. 最後まで読まない
04. 読み返す
05. 手当たり次第に何でも読む
06. ボヴァリズム(小説に書いてあることに染まりやすい病気)
07. どこでも読んでもいい
08. あちこち拾い読みする
09. 声を出して読む
10. 黙っている(読んだことを)
「本嫌いのための新読書術」という不粋なサブタイトルはともかく、このリストは、いかにも
フランス人らしいユーモアと示唆にみちたもので、本を読むということの様相をうまく表している。
なかでも「読まない」ことを読者の権利としてまず最初にあげたのは、この人の機知だろう。
彼が伝えたいのは、本に、自由を奪われる必要はないということだ。
この10のメッセージは、読書術なんていうもんじゃなく、本という物体にたいしての attitude
と考えたほうがいいだろう。
本というものをただの情報源と考えてしまうと、読むことと読まないことの間に情報的な優劣が
ついてしまう。 でも本を読んで得ることと、そのことで失うこと、本の before-after は(それは
本に限ったことじゃないのかもしれないけれど)、じつは常にゼロバランスで、読んでしまった
ことでその内容にスポイルされてしまったり、費やした時間がもったいないと感じる本はいくら
でもあるし、そもそもただ読んだだけで、その本をちゃんと理解しているかどうかなんて誰にも
わからない。
橋本治が、読んだことのない本のことを、読んだ人以上に知っていたというのは有名な話だし。
また長嶋茂雄がある作家に言った「読まなくてもわかります、いいに決まってます」というコトバ。
そう考えれば、「読むこと」と「読まない」ことに、それほど差異はない。
本の存在を感じること。
本がそこに在ればいいんだ。
本は眺めることもできるし、触ることもできる、その佇まいだけで感動することだってある。
そしてなによりも、「読書と引き換えに何も求めない」ってことが大切なんだと思う。
何も求めなければ、得られるものはたくさんある。
「最近、大御所といわれるアーティストの家をたずねた。玄関に入って一番最初に目に入った
のは、大型のハードカバーでいっぱいになった本棚だ。その家を去る時、彼から天井の高くに
吊るされた照明の電球を替えてほしい、と頼まれた。 ところが、ソケットには手が届かない。
彼は書棚までいくと、ぶ厚い 4、5冊の本を手に戻ってきた。そしてそれはちょうど電球に手が
届く高さだった。(Books are not just for reading by Abake)」
読者の権利をもうひとつ提案したい。
11 踏み台として使う
*
■ 大阪センチメンタルジャーニー 富岡多惠子 集英社 19970810 第1刷
大阪センチメンタルジャーニー、富岡多恵子という字面を見ていたら、上田正樹と有山淳二の、
「大阪へ出てきてから」という曲が浮かんできた。
ちょっとセンチメンタルなブルースだけど、なんかぴったりな気がしたのだ。
じっさいには大阪に「出てきて」ではなく、大阪を「出てから」31年目に帰った大阪の話。
捨てた故郷を思うとき、誰しもちょっとはセンチメンタルな気分になるはずだけど、多惠子さんは
クールである。 懐かしさに溺れることなく生まれ育った大阪のあれこれやあちこちを、淡々と、
ふつうに書き綴る。
大阪城、アメリカ村、うどん、てっちり、漫才、河内音頭、近松、そして師、小野十三郎。
こういうものを本として残してもらえたのは、富岡ファンとしては文句なしにありがたい。
1990/11/01~1991/10/31 産経新聞連載
■ まぼろしの大阪 坪内祐三 ぴあ 20041010 初版
大阪がもう一度続く。
こちらは、東京の都会人の大阪あれこれ、坪内祐三だから本のことが紀行にからむ。
あとがきで、「そのうち、東京よりも大阪のことが好きになってしまうかも知れない」なんて
書いているけれど、それは社交辞令、もしくは嘘だろう。
大阪人が坪内祐三を受け入れるわけがないし、坪内祐三が大阪に馴染めるわけがない。
彼が好きになってしまいそうな大阪は、たぶんとてもブキッシュな大阪だ。
颯爽といかないのは、この人の持ち味なのか。
2002/07/15~2004/08/09 ぴあ関西版連載
■ 家守綺譚 梨木香歩 新潮社 20040130 初版
なんとも不思議な物語、まさに「綺譚」としかいいようがない。
小説家志望の男が住まい始めた、とある一軒家におこるシュールな出来事、明治の頃の話だ。
全二十八章がすべて植物の名前になっている。
「それはついこの間、ほんの百年前の物語。サルスベリの木に惚れられたり、飼い犬は河童と
懇意になったり、庭のはずれにマリア様がお出ましになったり、散りぎわの桜が暇乞いに来たり。
文明の進歩とやらに今ひとつ棹さしかねている新米知識人の「私」と天地自然の「気」たちとの、
のびやかな交歓の記録――。」
家という異界、その中での得体の知れないものとの交歓という設定は、それだけでも充分に
魅力的だけれど、ただ幻想的なだけじゃなく、筆致や文体になんとなくとぼけた味があり、
色川武大の「怪しい来客簿」や杉浦日向子の「百物語」と同じような、微妙なユーモア感が、
本全体に漂っていて、「百年の孤独」が愛読書と聞けばなるほど。
本人曰く「料理人が作る自分用の賄いのようなもの」だそうだ。
まったく初めての人だけれど、とても年下とは思えない。
■ 藤森照信、素材の旅 藤森照信 新建築社 20090130 初版第1刷
藤森先生の最新刊、白いジャケットに穿たれた大小21の穴から、いろいろな素材が見える。
土石と草木、「科学技術を自然で包む」建築家だけに、自然素材のことは気になるところだろう。
聚楽土/大理石/スレート/土佐漆喰/鉄平石/青森ヒバ/ナラ/茅/竹/漆/檜皮/貝灰/
クリ/出雲流柿板/大谷石/千年釘/柿渋/焼杉/島瓦/台湾ヒノキ
16年、46回の「建築用自然素材を訪ねる旅(戸田建設という建設会社の広報誌『TC』で、
1992年から年3回のペースで、今も連載中らしい)」から選ばれた建築の20の素材。
どの素材もすごく魅力的だ。
エコなんていう言葉さえほとんどなかった時代から、自然素材、それもひときわ「純」な素材を
プリミティブなカタチで使いつづけてきた藤森先生の面目躍如たる一冊だろう。
「楽しい旅だった」、というのがあとがきの第一声である。
*
SPOTLIGHT 企画 「 bru na boinne のデザイナー辻マサヒロさんが選んだコトバノイエの30冊」
気鋭のデザイナー渾身のセレクション、残日わずかです、ぜひご一覧を。
